風のケアル2 波濤立つ都 著者 三浦真奈美/イラスト きがわ琳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)帆柱《ほばしら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)好奇心|旺盛《おうせい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]三浦 真奈美 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_000a.jpg)入る] [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_000b.jpg)入る] [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_000c.jpg)入る]    目次  第五章 デルマリナ入港  第六章 人民評議会  第七章 襲撃と攻防  第八章 別離   あとがき [#改丁]    第五章 デルマリナ入港      1  上甲板では、いつもの三倍の人数はいる水夫たちが走りまわっていた。  彼らの邪魔にならないよう、ケアル・ライスは後部船室近くの手すりにつかまり、灰色の雲と銀色に光る雲が折り重なって流れていく空を見あげた。  風は、四十日前に出てきた故郷の岩壁に吹きつけていたそれより強い。船体が波頭に乗りあげるたび、身体は宙に放り出されるように泳ぐ。  足もとさえおぼつかないケアルとは違い、水夫たちは慣れたものだ。この風と揺れの中で、手早く縄梯子《なわばしご》をのぼり、はるかに高い帆桁《ほげた》に取りつき、声をかけあい力を合わせて、どんどん帆を巻きあげていく。  見れば並んで帆走《はんそう》する他の二隻も、水夫たちがあわただしく帆を巻きあげていた。このぶんならおそらく、後方からやや遅れて続く五隻の船でも同じ作業が行なわれていることだろう。 「ケアル、だいじょうぶかっ?」  手すりにしがみつくケアルに、親友のエリ・タトルが声をかけてきた。  乗船直後から操船技術を学ぶために水夫たちと寝起きをともにしているエリは、故郷にいたときより金色の髪も肌も陽に灼《や》け、ますます逞《たくま》しくなったようだ。他の水夫たちと同じように、揺れる船上でも足どりはしっかりとしている。 「ああ、なんとかな」  ケアルがうなずいてみせると、エリは顎《あご》をまわして前方に見える、紫色にけぶった壁をしめしてみせた。 「あそこに突っ込んだら、暴風雨だ。揺れも風も、こんなもんじゃ済まねぇってさ」  紫の壁に見えるあれば、雨だった。暖かな風と冷たい風がぶつかる箇所に、あんな壁がうまれるのだ。故郷でも幾度か見たことはあるが、視界を遮《さえぎ》るものがなにもない洋上だからか、これほどはっきりと綺麗に見えるのは初めてだった。 「避けることはできないのか?」 「オレもそれ訊いたんだけどさ。むこうからこっち向かってくる風のほうが強いらしいんだ。避けるにゃ、戻らなきゃなんねぇ。けど風は、こっちからあっちに向かって吹いてるだろ。風向きに逆らって帆走するには、こうしてさ——」  エリは手を船に見立て、左右に蛇行《だこう》してみせた。 「まっすぐ帆走できねぇから、船足はめちゃ遅くなるんだ。同じ距離を進むのに、二倍三倍と手間も時間もかかる。んなことしてたら、すぐに雲に追いつかれるだろ」  翼ならば、右へ向かうも左へ向かうも簡単だ。ほんの少し、機体を傾けてやればいい。それに比べて船は、なんと不便なことだろうと考え、うなずいたケアルの横を「邪魔だっ! 退けっ!」と怒鳴って水夫たちが通り過ぎていく。 「そこのヒヨッ子! ぼやぼやしてんじゃねぇぞっ! さっさと働けっ!」  帆柱《ほばしら》の上から、帆布《はんぷ》をあおる風音にも船体にたたきつける波音にも負けない、どら声が降ってきた。見あげれば水夫頭がこの揺れの中、縄梯子に片手片足をひっかけただけの格好でケアルたちを睨《にら》みおろしている。  やべぇっ、とエリは小さく首をすくめ、ぽんとケアルの肩をたたいた。 「んじゃオレ、行くから。ケアルも危ねぇから、さっさと船室もどれよ」 「ああ、うん。エリも気をつけて」  駆けていった親友が早速、縄梯子に取りついたのをみはからって、ケアルはいったん船尾にある船室へと引っ込んだ。  ケアルにあてがわれた船室は、船長室のちょうど真下にある個室である。とはいえ寝返りも満足にうてない狭い寝台と、かろうじて本をひろげられる程度の小さな書き物机だけでいっぱいの、こぢんまりとした船室だ。  しかし五十人からいる水夫たち全員が、下甲板の梁《はり》と梁の間に吊り床を渡し、すし詰め状態になって眠ることを考えれば、個室を与えられるのはごくごく限られた人間だけであり、ケアルが重要な客として遇されていることがわかるだろう。  ケアル・ライスは、この船が向かうデルマリナの商人たちが新たに交易を望んでいる五領のうち、ライス領を治めるロト・ライスの三番目の息子である。ライス領主の命をうけ、デルマリナの内情を見聞するべく、親友のエリ・タトルとともに乗船した。  この船の後方から続く五隻の船には、ギリ領主の意をうけた使者が乗船しているはずだった。ギリ領はライス領に北接した土地で、ケアルの腹違いの姉がギリの次期領主のもとへ嫁いでいることもあり、五領の中でも最も交流の深い領であるといえる。だがギリ領主は五領主中最年長の老人で、年の功というのかかなりの食わせものでもあった。  おかげで当初、デルマリナへ向かう船に乗るのはケアルとエリだけの予定だったはずが、出航直前になってギリ領主は使者を五人、ケアルが乗る三隻の船団とは別の船主の意をうけた船団に預けたのである。これには、ロト・ライスを除く領主たちも驚いたらしい。ぬけがけと怒る領主もいたが、ギリ領主はまったく意に介さなかった。ライス領が使者を送るなら、我が領も使者を送ってなにが悪い——もちろんその通りではあるが、なにしろ未知の土地へ向かうのだ。生きて帰れるかどうかもわからない。だが、だからといってなまじな人物を使者にしたてることもできない。領を代表するにふさわしい身分の人物を、生きて戻れるかもわからない土地へ差し向けるとなれば、どの領主も二の足をふむ。それをやってのけたのが、ギリ領主だった。  ロト・ライスはある程度予想していたのか、息子にはギリ領の使者も乗船することを告げ、だが気にするには及ばないと伝えた。もちろんそう言われて、まったく気にしないわけにもいかなかったが……。  ケアルの故郷からデルマリナまでは、順調にいけば二ヶ月半の船旅であるらしい。記録にあるかぎり、ケアルたちは五領の歴史上初めて海を渡る人間となる。  しかしケアルは、使命の重さを感じるよりも、まだ見ぬ地への興味と期待のほうが強かった。これほど大きな船を何隻も建造できるデルマリナの技術、国力はいかほどのものなのか。人々はいったい、どんな暮らしをしているのか、と。  考えながらケアルは、書き物机の上に置いてある赤革表紙の本を開いた。  揺れる船室で、書き物机に向かって文字を書くことにもそろそろ慣れてきた。この赤革表紙の帳面は、出航の前夜に父がわざわざケアルの部屋まで出向いて、手ずから渡してくれたものだ。  おまえが見たこと聞いたことを、毎日これに記録しなさい——そう言われたときのことを思い出しながら、ケアルは細かい文字が並ぶ最初の頁をめくる。  故郷では、紙は貴重品だ。特にこんなふうにきっちり製本できるような紙は、領主でもそうそう手にすることはない。だからこそケアルは、領主である父がいかに今回のデルマリナへの渡航を重要と考えているか、わかるような気がした。  すきまなくぴっちり埋まった細かい文字を目で追ううちに、ひゅっと身体が落下するような感覚をおぼえて、ケアルははっと顔をあげた。  すべての帆を開いて帆走しているとき、風がいい具合だと、船は波頭を斬りながらまるで滑るように進む。しかし今日のように波が高いと、時おり波のてっぺんに船体が乗りあげ、一瞬にして波の底へと落下するのだ。水夫たちの話では、大きな嵐のときなど帆柱ほどの高さから落下することもあるという。  翼では、その程度の落下はごく当り前のことだ。風の具合や気流の関係で、翼は上空へ放りあげられたり、吸い込まれるように落下したりする。そんなこともまた、翼で飛ぶ醍醐味《だいごみ》だとケアルは思っていた。  そういえば、とケアルは強張った身体を指先からほぐしながら苦笑した。 (もう、一ヶ月以上、飛んでないな)  出航してから、一ヶ月半が経つ。ライス家の紋章が入った組み立て式の翼を船に積み込んではあるが、忙しく働く水夫たちの邪魔になっては申し訳ないと、出航以来、船上で組み立ててみたこともなかった。  翼で空を飛びはじめてからもう五年になるが、これほど長い間、飛ばないでいたことはない。また、自分がこんな長い間飛ばないでいられるとも思っていなかった。  故郷にいるとき、三日も飛ばないでいるともうそれだけで息苦しくなったものだ。離陸するときの浮遊感、激しい風を身体に受けるときの興奮、どこまでも続く水平線へ目を向けたときの解放感、といったものがたったの三日で苦しいほど恋しくなる。  翼を思い出し深いため息をついて、ケアルは新しい頁をめくった。まだなにも書きつけていないそこを見つめながら、ペンを手に取った。 (今日はなにを書こうか——)  頭をひねってペンを持ち直し、けれどケアルはそこで手を止めた。  地の底から響くような、低い音が聞こえたのだ。なんだろうと考え、再び聞こえたそれが雷鳴だとわかると、ケアルは背中を丸めて船室の天井を見回した。  身体じゅうの毛穴が、一斉にきゅっと閉じてしまったような気がする。だが、怖いというわけではない。不安が背中をざわざわと這《は》いのぼってくるような感覚だった。  ケアルの故郷では、雷鳴は事を起こすときの吉兆《きっちょう》であると言われている。これは吉兆なのだ、吉兆であってほしいと自分に言い聞かせながら、しかしいちど生まれた不安感はそう容易には消せなかった。  ふたたび雷鳴が轟《とどろ》く。その音は先ほどよりも大きく、ひどく近くで聞こえた。  船体がびりびり震えるような雷鳴に、ケアルはもう呑気《のんき》に座ってなどいられなくなり、立ち上がった。くすんだ色の木目しか見えない天井を見あげて、うろうろと船室内を歩きまわる。  三歩も進めば壁やら寝台やらにぶつかってしまう狭い船室を、どれほど往復しただろうか。やがて、ひときわ大きな雷鳴に続いて、甲板で何十何百人もの水夫が足を踏み鳴らしたような音が響き、同時に船体が軋《きし》みをあげて大きく揺れた。  ケアルは寝台によろけ込み、枠板につかまりながら天井を見あげた。甲板ではまだ、水夫たちが足を踏み鳴らすような音が続いている。少し落ち着いてくると、その音に人間の悲鳴や何かが砕けるような鈍い音が混じっていることに気づいた。  悲鳴には、助けを求める声が混じっている。そうとわかるとケアルはすぐさま立ちあがり、船室を飛び出した。  とはいえ船はまだ激しく揺れており、ケアルは壁に手をつきながら何度も、宙に放りだされるような感覚を味わった。  ようやく上甲板に続く階段にたどりつくと、水夫が三、四人だんごになって、転がり落ちるように走り降りてきた。人間ふたり並べばもういっぱいという狭い階段である。ケアルはあわてて脇にどき、彼らを通す。しかし中のひとりが頭から血を流しているのを見てとって、 「なにがあったんだっ?」 「雹《ひょう》だ!」  すぐさま答えた水夫は、血を流す仲間を引きずるようにして、下甲板へ続く階段を降りていく。かれらに手を貸すこともできず、ケアルはなかば呆然と怪我人を運ぶ水夫を見送った。  故郷でも、もちろん雹は降る。一昨年の春には大量の雹が降り、公館の前庭がいちめん親指の先ほどの大きさの雹で真っ白に染まったことがあった。だが、雹のせいで人間が怪我をするなどということは、ケアルが知るかぎりなかったはずだ。  いつの間にか、甲板を踏み鳴らすような音は止んでいた。それを待っていたかのように上甲板から、次から次に水夫が降りてきた。そのほとんどが、どこかしらから血を流し、頭を抱え、肩を押さえ、苦痛に顔を歪《ゆが》めている。  水夫たちの邪魔にならぬよう、板壁にぺったり背中をつけたケアルは、彼らの中にエリの姿はないかと捜した。  中には何人か、エリと親しく言葉を交わしている場面を見かけたことがある水夫もいたが、この状況で呼びとめてエリの安否を訊ねることははばかられた。  階段を降りてくる者がいなくなると、ケアルは壁にすがりながら板張りの段をのぼった。揺れの強さは先ほどよりましだが、ふつうに立って歩ける状態ではない。  甲板近くになると、揺れに合わせて上から雹がいくつも転がり落ちてきた。大きいものは拳《こぶし》ほど、小さいものでも親指ぐらいの大きさがある。  揺れと雹に足をとられながら苦労して階段をのぼりきり、目の前の視界が開けたとたん、ケアルは息をすることも忘れて甲板の上を見回した。  甲板の様子は、先ほどケアルが見たそれとは一変していた。板の目が見えないほど雹が降り積もり、甲板はどこもかしこも真っ白だった。水夫たちが何人か、帆柱にもたれて座りこみ、あるいは呆然と立ちつくして、一変した甲板を言葉もなく眺《なが》めている。  帆柱を見あげると、帆をつなぐ縄が何本も切れ、帆布が縄尻を風に泳がせながら、ばさばさと鳥の羽ばたくような音をあげてはためいていた。帆桁にひとの姿は見えなかったが、あの高さにいてこんな大きな雹をくらった水夫がどうなったか、想像するだけで恐ろしい。  上空には雲がかかり、あたりは夕刻のようなうす暗さだった。雹を降らせた積乱雲はまだ海上に覆い被さるようにのびており、時おり雲間に稲妻が瞬《またた》くのが見えた。  またいつ雹が落ちてくるかわからない、と思うと足がすくむ。だが息をひとつ吸い込み気持ちを奮いたたせると、ほとんど這うようにして船首のほうへと向かった。  ほとんど人影のない船尾まわりとは違い、船首付近からは幾人かの水夫の怒鳴りあう声が聞こえた。 「放せっ! 私はここに残って——」 「怪我してるくせに、なにボケたこと言ってんだよ!」 「そうです! 早く手当てを!」  手すりにつかまって立ちあがったケアルは、そこにエリのものらしい金髪を見つけて、ほっと胸をなでおろした。  水夫が五人ばかりかたまって、なにか揉めている様子だ。その中心には、肩飾りのついた上着を着たスキピオの姿がある。 「——ケアル!」  エリが気づいて、ケアルに手を振った。その仕草から、どこも怪我はしていなさそうだと判断し、ケアルはもういちど安堵した。  転がる雹と船の揺れでケアルが満足に動けないらしいとわかったのか、エリはそこで待てと手で合図すると、器用な足どりで走り寄ってきた。 「よお、無事だったか」  顔をくしゃくしゃにして笑いながら、エリが言う。 「おれは、船室にいたから……。それよりエリこそ、よく無事で!」 「あ、オレ? 帆柱の下にいたからさ、帆布がちょうど雹を受け止めてくれた感じになって、オレには当たらなかったんだ」  あっけらかんとエリは応えたが、もし一歩間違っていたらと思うと、ケアルは背筋が寒くなるのを感じた。 「それよかケアル、あのおっさん、なんとかしてくんねぇ?」  エリが指さしたのは、スキピオだった。 「頭っから血いだらだら流してるくせに、私が指揮をしないと、とかぬかして、てんで船室にもどろうとしてくんねぇんだ」 「怪我をしているのか?」 「そ。頭の傷はまあ、たいしたことねぇかもだけど。たぶん右手、骨が折れてると思うんだよな」  このへん、とエリは右手首の上を指さしてみせる。骨折の痛みを想像して顔を強張《こわば》らせながら、ケアルはうなずいた。 「わかった。おれが船室までお連れする」 「やった。んじゃ、頼むな」  ぽんとケアルの肩をたたいてエリは、水夫たちに囲まれたスキピオのところへもどっていった。  言い争う声が聞こえたが、やがて水夫のひとりに付き添われ、スキピオがやってきた。船乗りとしての経験は長いスキピオだが、怪我のせいか揺れにうまく対応できず、足どりが危うい。ここまで這ってきたのも忘れて、ケアルは思わずスキピオに駆け寄った。 「だいじょうぶですか? 手を……!」  ふらつきながら手をさしのべたケアルを、スキピオは険しい表情でにらんだ。 「必要ない! 私はここに残って、水夫たちの指揮をとる」 「その怪我では、無理でしょう。まずは手当てをなさらないと——」 「手当てなどしている暇はないんだ! この船の船長も水夫頭も、怪我をして下へ運ばれてしまった。指揮する者なくして、この窮状を脱することなどできるか!」  使命感だけでもっているのだろうとわかるほど、彼の顔は青ざめている。額から流れる血は痛みに耐える汗と混じり、顎先からぽたぽたと滴《しずく》になって落ちていた。  頑固《がんこ》にここへ残ると言い張り続けるスキピオのむこうでは、幸い怪我がなかったか、あるいは軽傷だった水夫たちが十人ほど集まり、なにごとか話し合っている。やがて話が決まったのか、水夫たちが動きだした。  半数が甲板上の雹を海へ捨てる作業を、あとの半数は帆柱にのぼって帆布の補修作業を始めた。 「船団長は、おれが船室までお連れするから」  スキピオに付き添ってきた水夫が、作業を始めた仲間たちを気にしていることに気づいてケアルが言うと、彼はおどおどした目つきでスキピオとケアルの顔を見比べた。 「——わかった」  観念した様子でやっと、スキピオはうなずいてみせた。 「私は船室にもどって手当てをうける。おまえは作業に参加しろ」  船団長の言葉に、水夫はぺこっと頭をひとつさげると、はじけるように仲間たちのほうへ向かって駆け出していった。  苦心《くしん》惨憺《さんたん》してスキピオを船団長室へ連れていったケアルは、船医を捜すため、これもまた苦労して船内を歩き回った。水夫たちの怪我を診ていた船医を見つけ出したものの、かなりの老齢の船医を船団長室まで連れていくのは、スキピオに手を貸して甲板を歩くよりたいへんなことだった。そのうえ手もとがおぼつかない船医の指示で、ケアルがスキピオの額の傷に包帯をまき、骨折した右手に添え木を当てなければならなかった。  それでもどうにか手当てを終えると、スキピオはすぐに甲板へ出たがった。ケアルと船医はふたりで言葉を尽《つ》してスキピオを止めたが、彼はもうこれ以上は聞く耳をもたなかった。  仕方なくケアルはスキピオに手を貸し、彼が立ちあがったとき。ふいに船体が、突き飛ばされたように大きく揺れ、耳ざわりな軋みをあげた。  ケアルは急激な船体の動きに身体がついていけず、近くにあった椅子とともに床の上に転がった。スキピオも寝台の上に尻をついたが、彼はケアルより先に立ちあがると、 「いったい何をしているんだ……っ!」  吐き捨てるようにつぶやき、とても怪我人とは思えぬ動きで船室を走り出ていった。  ずいぶん遅れてケアルがスキピオを追って甲板へ出てみると、船は波高い海面を大きく旋回しつつあった。先ほどの急激な揺れば、船が突然針路を変えたことが原因であるらしい。 「誰の指示で、こんなことをしている!」  甲板の中央では、スキピオが水夫たちに向かって怒鳴っていた。 「いますぐ、やめろっ!」  よろめきながら甲板の中程へ向かって進んだケアルは、針路を変えた船がどこへ向かおうとしているのかを理解した。  進む先には、三隻で船団を組んでいたうちの一隻の船がある。その船の帆柱は、あきらかに大きく傾いていた。  帆柱の傾きに引っぱられ、船体も傾き、喫水線《きっすいせん》をはるかに越えたところまで、高い波がかぶさっている。素人《しろうと》の目から見ても、じきにあの船は沈むに違いないと思えた。 「接舷《せつげん》するのは危険だ!」  怒鳴るスキピオに、水夫たちは互いに顔を見合わせている。やがて船首のほうから、エリが走ってくるのが見えた。 「——すみません。オレが見つけて、みんなに頼んだんです」  前まで来て頭をさげたエリの頬を、スキピオは左手で張り飛ばした。 「素人が、余計なまねをっ!」 「けど、放ってはおけないです」  平手をくらっても一歩もひかず、エリは言い募《つの》った。 「オレたちが助けねぇと、あの船に乗ってるやつは——」 「そういった判断は、私がする。なにが危険かもわからない素人が手出しして、この船まで沈めるつもりかっ!」 「そんなヘマはしねぇよっ!」  ふたりが言い争っている間にも、船は沈みかけた船へと近づいていた。  これでは埒《らち》があかないと思ったのか、スキピオはエリをもう一発、こんどは拳で殴りつけると、他の水夫たちに向かって船の進行を止めるように命じた。  殴られて甲板に倒れたエリに駆け寄ったケアルが、親友を抱き起こす間に、船は速度をゆるめ始めた。 「くそっ! なんで止めるんだよっ!」  吐き捨てるように怒鳴ったエリが、甲板に両手をたたきつけ、立ちあがる。 「オレらが助けなきゃ、船が沈むだろうがっ! いっぱい人が死ぬんだぞっ!」  抱き起こしてくれたのがケアルだとさえわかっていない様子で、エリは親友の手を振り払い、ふらつきながら水夫たちのほうへと駆け寄っていく。  だがエリがどんなに訴えても、スキピオの指示で帆を畳み始めた水夫たちは、その作業を止めようとはしなかった。申し訳なさげにエリをうかがう水夫もいるにはいたが、船上において船団長の指示は絶対である。  小人数での帆を畳む作業は手間取り、船が進行を止めたのは、沈みつつある船の甲板上に動く水夫たちの姿がはっきり見えるほど近づいてからだった。  彼らは傾いた船上で、船尾の両舷にくくりつけた小舟をなんとかして降ろそうとしていた。けれどその作業は遅々として進まず、足場を踏み外した水夫たちが何人か、波高い海面へ落ちていくのが見えた。 「せめて、小舟を出してくれよっ!」  エリがスキピオにすがりつき、叫んでいる。けれどもスキピオはエリを突き飛ばし、口を出すなと怒鳴った。  ケアルは、頑として首をたてにふらないスキピオと沈みつつある船を交互に見つめ、きゅっと唇をかみしめると、ふらつきながら船尾の左舷にくくりつけた小舟に近づいた。  小舟のおろしかたは、何度か間近で目にしたことがある。方法はわかっているつもりだった。  やがてエリがケアルに気がつき、走り寄ってきた。なにも訊かずエリは、小舟をおろす作業に加わった。 「なにをしているっ!」  すぐにスキピオも、ケアルがなにをしようとしているか気がつき、険《けわ》しい形相《ぎょうそう》で駆け寄ってきた。 「きみまで、どういうつもりだ!」 「——小舟を出せば、何人かは助けられるんじゃないですか?」 「これだから、素人は余計なまねをするなと言っているんだ! こんな小舟では、へたをすれば船の沈没に巻き込まれるぞ!」  えっ? と思わず作業の手を止めてしまったケアルの横で、エリが怒鳴り返す。 「だからって、黙って見てるわけにゃいかねぇだろうがっ!」 「被害を最小限におさえるのが、私の義務なんだっ!」  唇をぶるぶると震わせながら、スキピオは叫んだ。 「私が平気だとでも思っているのか!」  頭に巻いた包帯は血がにじみ、大きくみひらいた目からは血の涙がこぼれ落ちてきそうな表情だった。その勢いに気圧《けお》され、エリもまた小舟をおろす作業の手を止めた。 「小舟がおりたぞっ!」  水夫のひとりが叫んだ。 「そうじゃない! もっと右だ!」 「舟に向かって飛びおりるな!」  水夫たちの声が飛ぶ中、わずか一艘の舟に最後の望みをたくして荒れた海上に飛びおりていく人々の姿を、ケアルは息を詰めて見つめた。  小舟に乗ることができる人数は、たかがしれている。舟の上がいっぱいになると、飛びおりた人々は高い波に呑まれまいと舟の縁にしがみつく。 「あれじゃ、だめだっ!」  横にいたエリがこらえきれずといった様子で叫ぶと、甲板の中央へ向かって走っていった。なにをするのかと思う間もなく、エリは巻き留めてあった縄の束をつかみ、その端を空き樽に巻きつけた。  エリの意図がすぐに理解できたわけではなかったが、ケアルはこの親友がどんなときでも決してあきらめない男だと知っていた。すぐさま踵《きびす》をかえし、身体を泳がせながらエリのもとへ近づく。  ちらっと視線をあげただけで、エリはなにも訊ねず、 「ケアル、反対側持ってくんねぇ?」  樽の上部をつかんで持ちあげ、顎先で樽の下の部分をしめした。言われるままにケアルは樽の片側を持ち、歩きだしたエリの負担にならぬよう懸命に足を踏んばって、樽を運んだ。  左舷の端まで行くと、エリの「せぇのっ!」という掛け声で、ふたりは息をそろえ樽を前後に揺らし始めた。 「できるだけ遠くへ投げるんだぞ!」 [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_021.jpg)入る] 「わかってる!」  うなずくケアルにエリがうなずき返し、二度目の掛け声とともにふたりは樽を船外へと放り投げた。手すりを越えた樽は、しゅるしゅると縄を繰り出しながら宙を飛び、海面に落下した。いったん三分の一ほど水中に沈んだ樽は、跳《は》ねるように波の上に浮きあがると、あとは潮に流されてずんずん遠ざかっていくのが見えた。  流された樽が海へ飛び込んだ人々に近づいたのを見てとって、エリが叫ぶ。 「そいつにつかまれっ!」  エリの声は、波や風の音に消されて聞こえなかったかもしれない。だが、荒い波にもまれて今にも沈みそうだった人々のうちひとりが、藁《わら》をもつかむといった様子で樽にしがみついた。  それを見たこちらの船の水夫たちが我も我もと、エリにならって空き樽に縄を巻きつけ、ふたり一組で海上へと放り投げ始めた。樽が五つも流れ出すと、むこうの船の人々もこちらの意図に気づいたのか、定員いっぱいの小舟を離れ次々と樽にしがみついていく。  とはいえ樽にしがみつく人数は、ふたりから三人がやっとだった。それ以上しがみついた樽は、人間の重さと潮の流れで、どんなに力を入れて引いてもびくとも動かない。それどころか縄が引く側の手を離れ、樽はどんどん船から離れていった。  それでも水夫たちは、全力でその作業を繰り返した。ひとりでも多く、沈む船から人々を助けるために。  船上に十人近くの人々が引き揚げられ、甲板が溶けた雹やら海水やらでびしょ濡れになったころ、ケアルは視界の隅にスキピオの姿をとらえた。帆柱に背中をもたせかけて立つ船団長は放心した表情で、懸命に動きまわる水夫たちをながめていた。  あとでエリの勝手なふるまいを謝らなければならないな、とケアルは縄を引きながら考えた。エリの機転で何人もの人々を助けられたのは事実だが、それはエリの水夫としての職分を越えたものだ。もちろんエリに手を貸したケアル自身も、同罪だといえる。 「ああっ! 船が……!」  声をあげたのは、助けられた水夫のひとりだった。全員がその声につられたように、むこうの船へ視線を向けた。  船はすでに、甲板に波が打ちつけるほどに傾いていた。折れた帆柱の箇所から船体はふたつに割れ、ケアルたちにも聞こえるほど大きく軋みをあげて、海中に没しようとしている。 「沈むぞ……っ!」  ケアルは祈るような気持ちで、ゆっくりと沈みゆく船を見つめた。まわりの海水は大きく波立ち、渦を巻き、まるで船体をその渦の中心へ引きずり込むようにみえた。  だれかが大きな声をあげ、泣きだした。耳をすませばあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。逞しい海の男たちが、まわりの目を気にもせず泣いている。  船体が没し、最後に残った帆柱の先がゆるゆると波間に消えていくのを見つめながら、ケアルも目の奥が熱くなるのを感じた。船を失う水夫たちの気持ちがわかるとは、おこがましくて言えはしない。だがもし長年使ってきた翼を失ったとしたら、我が身を引き千切られるような思いに、男泣きに泣くだろうと想像できた。  やがて人々の涙に送られ、船は泣き声のような軋みをあげ、ゆっくりと渦の中へ飲み込まれていったのだった——。      2  一隻が没み、二隻の編成となった船団がデルマリナへ入港したのは、ライス領を出発してから三ヶ月後のことだった。  船団長のスキピオは船を一隻失ったことで気落ちしたのか、雹が降ったあの日以来、甲板に出ることもなく船室にとじこもりがちになり、やがては額に受けた傷が悪化して寝台から離れることさえできなくなっていた。ケアルは最初は謝罪のために、二度目からは見舞いとして幾度か船室を訪問したが、話らしい話など全くできなかった。  一方、職分を越えたまねをし、処罰されてもおかしくないはずだったエリは、一切だれからも咎《とが》められなかった。それどころか水夫たちはエリの機転を賞賛し、一目おくようにさえなったのである。特に沈没する船から助けあげられた水夫たちは涙を流してエリに感謝し、まだ見習い水夫にすぎない彼を水夫頭と同等、あるいはそれ以上に扱った。  後半、ただでさえ長い航海の終盤で船体に傷みが目立つころに雹の直撃をうけたうえ、船団長であるスキピオが直接指揮をとることができなかったのだ。状況的にはおそらく、最悪だったといえるだろう。だがケアルは、航海そのものについてはさほど不安は感じなかった。  それはおそらく、水夫たちの誰ひとりとして不安を訴える者がなく、船内の雰囲気が最悪の状況におかれているとは思えないほど明るいものであったためだろう。船を一隻失ったのは不幸な事故だったが、ケアルにはあの件以来、水夫たちの結束がかたまったように思えてならなかった。  船がデルマリナに入港したのは、深夜といっていい時間帯だった。  帆柱や帆桁いっぱいに明かりを掲げた二隻の船は、まるで寄り添うようにゆっくりと、港内へと入っていく。ケアルは船尾の他より高い甲板に立ち、入港の様子をながめていた。  深夜のこと、ケアルの目には都市の姿はわずかにある月明かりの下で、海上に突如あらわれた巨大な難破船の集団のように見えた。船が進む先には、帆柱の頂上ぐらいの高さに遠くからでもはっきりわかる明かりがともっている。 「我々船乗りは、あの明かりを目印にして出航したり入港したりするんですよ」  教えてくれたのは、いよいよ入港となって久しぶりに水夫たちの手を借り甲板へ出てきたスキピオだった。立っているのは辛いのか、船室から椅子を持ち出して座っている。身体はすっかり痩《や》せ細っていたが、肩飾りのついた上着をびっしりと隙《すき》なく着込み、髭《ひげ》を剃《そ》り髪をととのえて、身だしなみだけは完璧に船団長の職務を精力的にこなしていた頃のままだった。 「このへんは浅瀬が多いですからね。日が暮れてしまったら、あの明かりだけがたよりなんです。だからあそこには専属の明かり守がいて、毎日決まった時刻に明かりをともし、決まった時間に明かりを消すんですよ」 「毎日なんですか?」 「ええ、嵐の日も変わらず。我々船乗りはあの明かりが見えると、ああデルマリナへ故郷へ帰ってきたんだと思いますよ」  そう言って目を細め、目印の明かりをながめるスキピオの横顔を見おろし、ケアルはあわてて目をそらした。素にかえった男の顔は子供っぽく、見てはいけないものを見てしまった気分になったのだ。  目印の明かりに導かれしばらく進むと、やがて海面とそう変わらない高さに小さな明かりが五つほど見えた。近づく船に向かって、その小さな明かりが円を描いて振られる。  あれは? とケアルが訊ねると、 「昼間、この船に小型船が近づいたそうですから、先触れが我々の入港を知らせたのでしょう。たぶん、船主の出迎えですよ」 「船主というと……?」 「ご紹介しますよ、到着したときに」  椅子の背に深々ともたれかかり、スキピオは意味ありげに微笑んでみせた。  以前、デルマリナでは船はすべて個人所有であると聞いて、ケアルはひどく驚いたものだ。故郷では、舟はどれも島単位による共有財産だった。島で漁に使っていた舟はもちろん、デルマリナの船とはまったく比較にならないほど小さく貧弱なものだったが、だからこそケアルの驚きは大きかった。  これほど大きな船を個人で所有できる人間とは、いったいどんな人物なのだろう。興味を抱いていた人物にやっと、会えるのだ。  接岸時の光景は、おそらくケアルにとって一生忘れられないものになるに違いない。水夫たちが帆柱にのぼり、帆桁の上で岸に向かって一斉に敬礼姿勢をとったのである。  暗い海面に帆桁に吊《つる》された明かりが揺れ、水夫たちの影が港にならぶ倉庫の壁に大きく映る。岸で待つ人々の数はおよそ十人足らずではあったが、水夫たちの礼をうけて同じように敬礼を返すのが見えた。  やがて船から投げた縄が杭《くい》につながれ、渡り板がかけられると、スキピオはケアルをともなって真っ先に船をおりた。そんなふたりを両手をひろげ、先頭に立って出迎えたのは、右目に派手な刺繍《ししゅう》のある眼帯をつけた逞しい男だった。  年はおそらく、ケアルの父と同じくらい。丈の長い上着の下には、鮮やかな真紅を基調にした柄のベスト。いかにも上等そうな服装と自信に満ちた態度に、ケアルは彼が船主であろうと予想した。  予想通りというべきか、スキピオは男に向かってまず船を一隻失ったことを詫び、続いて帰郷の挨拶をすると、 「こちらはライス領の領主、ロト・ライス殿のご子息で——」  ケアルの肩を軽く押して紹介した。 「はじめまして。ケアル・ライスです」 「ようこそ、デルマリナへ。私はピアズ・ダイクンと申します」  にこやかに手を差し出され、握手に応じたケアルは、男の手の感触に少しばかり驚いてしまった。  こんな大きな船を個人所有する人物ならば、ケアルが想像できないほどの財力をもっているのだろうと思っていた。それこそ多くの家令に傅《かしず》かれ、食べるために額に汗して働かなくてもいい、力仕事などこれまでしたこともないような人物なのだろうと。けれど男の手は、故郷の島人たちと同じように、皮膚の厚い、指のつけ根には力仕事でできた胼胝《たこ》がでこぼこと並ぶ、労働者のそれだったのだ。  ピアズ・ダイクンと名乗った男はケアルの戸惑いなど気づかぬげに、にこやかな表情を崩さず、そばにいた数人の男たちを次々に紹介してくれた。  ケアルが彼らとも順に握手を交わし終えると、 「長旅でお疲れでしょう。まずは私の屋敷でお休みになってください」  その申し出をうけていいものかどうか、ケアルが迷っているうちに、スキピオは水夫たちにケアルの荷物をすぐ船からおろすようにと命じた。  ケアルが故郷から持参したものは、組み立て式の翼と、着替えや身のまわり品を入れた箱がひとつである。箱は水夫ふたりが抱えて船からおろし、翼のほうはエリが自らケアルのもとへと運んできた。  礼を言ったケアルにエリは、 「やつら、あっちこっちにぶつけながら運びやがって、見てらんなくなったんだよ」  うしろで恐縮している水夫たちを顎先でしめし、笑ってみせた。 「エリの荷物は?」 「んー、まだ船ん中。つっても、袋ひとつだけどさ」  入港に際して服装をあらため、窮屈な上着を着込んでいるケアルとは違い、エリは島にいたときと同じ格好だ。足もとは裸足で、金色の髪は夜風に吹かれて、あちこち飛びはねている。  ふたりの親しげな会話と、水夫たちとも違うエリの服装に気づいたのだろう。ピアズが「こちらは?」と訊ねてきた。  自分の親友で、ロト・ライスの命により共に乗船したのだとケアルが紹介すると、ピアズはエリにも自分の屋敷で休んでほしいと申し出た。 「えーっ、オレ? 入港の祝いに、みんなと飲みに行こうって約束してんだけどな」  船を振り返って言うエリに、スキピオがとんでもないと言いたげに眉をつりあげた。 「そんなことは、今夜でなくてもいいでしょう。せっかくダイクン氏が招待してくださったんだぞ」 「でもなぁ……」 「きみは自分の使命を、考えるべきだ。水夫どもと仲よくするために、御領主に乗船を命じられたわけではないだろう」  小さく唸《うな》って、エリは額をぽりぽりと掻いた。使命を持ち出されては言い返せないが、かといって水夫仲間との約束はどうしても破りたくない、というエリの気持ちはケアルにもわかった。三ヶ月の航海で、エリはそれほどまでに水夫たちの信頼を得、彼らの中に溶け込んだのだ。 「では、こうするのはいかがです?」  申し出を受けなかったエリに機嫌を損《そこ》ねた様子もないピアズが、やんわりと間に割り入って提案した。 「明日の夜、私の屋敷に今回の航海に参加した皆さんを招待します。気楽な宴席を用意しますので、そのときに存分に楽しんでいただければよろしいかと」 「っつーことは、タダ酒を飲ましてくれるってこと?」  とたんに目を輝かせたエリに、ピアズが苦笑を浮かべながらうなずく。 「おい、エリ」  さすがに失礼な物言いではないかとケアルはたしなめたが、エリはあっけらかんと、 「見かけによらず、いいヤツじゃん、おっさん」  そう言ってピアズの肩をたたき、連中に伝えてくると言い残し、くるっと踵をかえして船へ走り去っていった。  あとに残ったケアルははらはらしながら、苦笑するピアズと憮然《ぶぜん》としたスキピオの顔を交互にうかがったのだった。      3  鐘の音が聞こえた気がして、ケアルは目をさました。  ぼんやり目を開けながら、今日の波音はいつもと違うなと考える。嵐の前兆だろうか。それとも、雨が降っているのか。  椅子の背にかけたシャツを取ろうと手をのばしたケアルは、ぎょっとした。いっぱいに手をのばしたというのに、指先に触れたのは、椅子でもなければ寝台の外枠でもない。  あわてて跳ね起きたケアルは、ここが船室ではないことをやっと思い出した。もちろん海の上でもない。優に五人は並んで眠れそうな天蓋《てんがい》つきの豪華な寝台、凝った模様の絨毯《じゅうたん》が敷かれた部屋は天井が高く、翼が二、三機すっぽり入りそうな広さだ。  寝台をおりたケアルは、揺れていない床に違和感をおぼえつつ、薄い硝子《ガラス》の入った窓に近づいた。そして、硝子ごしにいきなり窓から見えた光景に、ケアルは小さな子供のように息をのみこんだ。  広い運河と、それをはさんで向こう側に並び建つ石造りの巨大な建物。窓の手前で立ちつくし、ぽかんと口を開いて、ケアルは動くこともできなくなった。  ゆうべは丁重ではあるが強引に、ピアズ・ダイクンの用意した小舟に乗せられ、なにがなんだかわからないうちに彼の屋敷まで連れて来られてしまった。小舟には後ろの部分に明かりを掲《かか》げてあったが、夜更《よふ》けのうえ月あかりも建物に遮られていたのか、見えるのは運河の黒い水と、左右に迫る建物の壁だけだった。  屋敷に着いたあとも、疲れているだろうからとすぐ部屋に案内された。暗がりの中で見回しても豪華だとわかる室内に興味はあったが、深夜に室内とはいえ歩きまわるのも無礼な気がして、おとなしく寝台に入ったとたん、やはり言われた通り疲れていたのだろう、すぐに眠り込んでしまったのだ。  ようやく放心から立ち直ったケアルは、そろそろと足を動かし、硝子に息がかかるほど窓へと近づいた。小さな留め金をはずせば窓が開くらしいとわかり、おそるおそる少しだけ開けてみる。  流れこんできた外気は、潮の匂いがした。馴染んだ匂いにちょっぴり安心し、あともう少し、身体の幅だけ窓を開ける。  匂いに続いて飛び込んできたのは、たくさんの人間の声、それから子供が水遊びをしているようなチャプチャプという水音。おっかなびっくりで見おろしてみて、人間の声は運河を行き交う小舟を操る船頭たちの声で、水音は運河の水が建物の壁に寄せ当たる音なのだとわかった。さっき寝惚《ねぼ》けて聞こえたと思った波の音は、この水音だろう。  それにしても、と考えながらケアルは広い運河を右から左へ眺めわたした。運河の広さはともかくとして、そこに浮かぶ舟の数は、いったいなにごとだろうか。船頭が乗って行き交っている舟だけで、二十艘近く。それに加えて、建物の前にはそれぞれ舟着き場があり、そこには誰も乗っていない舟が無造作に何艘も停めてある。  運河沿いにならぶ建物も、ケアルにはひたすら驚きだ。これらと比較対照できる建物は、故郷では領主の公館ぐらいしかない。けれどそれは、大きさのみである。外壁も窓も露台も屋根も凝った装飾がほどこされ、色もまたくすんだ赤や黄色、深い海の青や草地の緑など、建物それぞれに違う。  まばたきも忘れて窓の外の風景に見入っていたケアルは、いきなり開いた扉の音に、全身で飛びあがった。 「なんだ、起きてんなら返事しろよな。声かけても、扉たたいても全然、返事がねぇから。まだ寝こけてんのかと思ったぜ」  現われたのは、昨夜は隣室に案内されたはずのエリだった。 「ああ、ごめん」  エリの声も扉をたたく音も気づかないほど夢中になって見入っていたのかと、少し恥ずかしくなってケアルは謝った。 「いいけど。それよかさ、さっき面白い話聞いたんだ」  ずかずかと部屋に入って来たエリはそう言いながら、寝台の上に座った。 「聞いたって、どこで?」 「外だよ」 「そっ、外に出たのか……っ?」  着替えようとシャツに手をのばしたケアルは、目を丸くしてエリの横顔を見つめた。 「うん。だってさ、部屋ん中いてもつまんねぇだろ。ちょっと探険しようってんで外に出たら、裏の水汲み場で女どもが集まって、ぺちゃぺちゃ喋《しゃべ》くってんの」  自分が放心して外を眺めている間、エリは外に出て誰かと話までしていたのかと、ケアルはなかば呆れ、なかば感心した。 「おもしろそうだってんで、ちょっと水汲むの手伝ってやったらさ。訊きもしねぇのに、あれこれ喋ってくれて——」  そこで言葉をきると、エリはのびあがってケアルの耳もとに口を寄せた。そして部屋には誰もいないのに声をひそめ、 「そしたらさ、女どもみんなオレたちの噂話してんだよ」 「おれたち……?」  きょとんとしているケアルに、エリは自分とケアルを順番に指さした。 「オレと、おまえ。んで、オレたち」 「なんで、そんな……」 「ゆうべ入港した船に、奇妙な�お客さん�が乗ってたらしいってさ」  これがまた、いかにも女たちが考えつきそうな噂話なんだぜ、とエリは無邪気に笑った。 「たとえばそのお客さんってのは、南海の孤島で獣を手下にして暮らしてたらしいとか、どっかの富豪の奥方が、夫がよそで産ませた赤ん坊を舟に乗せて海に流した子で、そいつが成長して帰ってきたらしいとか、難破した船の生き残りで、実は水夫たちの死体を食って生き延びたらしいとか。あと、ちょっと前に船の上で赤ん坊が海鳥にさらわれた事件があったらしくて、あんまり赤ん坊が泣くんでうるさくなった海鳥が船まで返しにきたらしい、なんてのもあったな」  なんの屈託《くったく》もなく数えあげてみせるエリに、ケアルは渋い顔をして唸った。 「なんだってまた、そんな噂話になるんだ?」 「だからさ、女ってのは噂が好きで——」 「そうじゃなくて、おれが言いたいのは、船におれたちが乗っていたことを、どうしてそんな水汲み場にいる女性たちが知っているんだ、ということだよ。船が着いたのは、ゆうべ遅くだぞ。まだ半日も経っていない」 「なんだ、んなことかよ。そんなもん簡単じゃねぇの。何ヶ月ぶりかで陸にあがれた水夫の連中が、そのまんまおねんねなんかするもんかよ。どっかで一杯やりたいとか、胸ぼーんっ腰きゅっのねーちゃんとシケ込みたいとか思うのが当然だろ」  言いながらエリは両手で宙に、女性の胸から腰にかけての形をつくってみせる。 「ああ、くそっ。オレも一緒に行けばよかったなぁ。いい女のいる酒場に連れてってもらえる約束してたんだぜ」 「エリ! 言っておくけど、絶対にそういうとこに行ったらだめだよ」  あわててケアルがたしなめると、エリは唇を尖《とが》らせた。 「ええっ、なんでだよ!」 「おれたちはここまで、遊びに来たわけじゃないんだ。それにエリは自覚がないようだけど、おれたちはライス領民の代表なんだ。おれたちの行動はそのまんま、ライス領民の行動だって思われる。たとえ個人の失態でも、責めはライス領全体に——いや、ひょっとしたら五領すべてが負うことになるかもしれないんだよ」 「おいおい、冗談だろ」  冗談なんかじゃないよ、とケアルは真剣な顔でかぶりをふってみせた。 「思い出してみなよ。ウルバ領主が船を襲撃したとき、謝罪したのはライス領主——父上だ。父上はなにも知らなかったけど、知らないと言って通じる事態じゃなかった」 「ケアルの言いたいことは、まあわかるけどさ。でもオレは単に、水夫仲間と酒場に行きたいって言ってるだけなんだぜ。あの大莫迦《おおばか》野郎なウルバ領主みたいに、なにも酒場に討ち入りしようとか言ってるわけじゃねぇんだけどなぁ」  叱《しか》られた子供のような顔をして、エリはぽりぽりと後ろ頭を掻いた。 「うん、まあおれもちょっと心配しすぎかもしれないけど。意識して自覚もってるのと、そうじゃないのとでは違うだろうから」  言いながら、これでは口うるさい小舅《こじゅうと》のようだと思えて苦笑した。 「——ケアル?」  どうかしたのか? と顔をのぞきこまれ、なんでもないとかぶりをふった。  あれこれと気をまわし、心配し、考えすぎる自分が、時々ひどく嫌になる。エリのように誰に対しても構えたりせず、自然体で接することのできる人間のほうが、きっと相手も心をひらいてくれるのだろう。五年前、初めてエリに会ったときのケアルがそうだったように。  今もケアルが「なんでもない」と首を振ったのを疑いもせずそのまま受けとめ、エリはにこにこしながら次の話題へと移った。 「んでさ——水汲み場の女どもがしてた噂、実はもひとつあるんだ」 「おれたちの噂か?」 「それが違うんだよな。女どもの中に、ダンナが港の曳航《えいこう》やってるってのがいてさ。その女が言うには、ダンナが今朝早くに呼び出されて仕事に行ったってんだ」 「曳航……って?」 「なんでも、自力で入港できねぇ船を引っぱってくる仕事らしいぜ。出てった船が全部、まんま元気で帰ってくるとは限らねぇだろ。特にこのへんは、浅瀬が多いからさ。水路をちょっとハズれりゃ、すぐ座礁《ざしょう》する。そういうとき、曳航船が出張《でば》ってって、船を港まで引っぱってくるんだとさ。座礁されちゃ、朽《く》ち果てるまでほっとくしかねぇけど、入港できちまえば修理だってできるもんな」  水夫仲間から得た知識なのだろう。エリの説明にケアルは、なるほどとうなずいた。 「その女のダンナが曳航する予定の船ってのがさ、どうやら五隻の船団らしいんだ。いきなり五隻だってんで、当直の係だけじゃ足りなくて、急に呼び出されたんだと」  そこでふいに口をつぐむとエリは、意味ありげに笑ってみせた。 「なあ、五隻の船団って聞いて、ぴんとこねぇ?」 「……まさか、もしかして——」  はっと目をみひらいたケアルに、エリは嬉しそうにぽんと膝《ひざ》を打った。 「そ。オレらの船と一緒に出航した、あの船団じゃねぇかと、オレはふんでる。数もあってるし、オレらより半日遅れってとこもなんか、それっぽいだろ」  五隻の船団がケアルたちの故郷にやってきたのは、スキピオが指揮する三隻の船団に遅れること約半月後のことだった。五領主とスキピオの間で、あるいは五領主と五隻の船団の代表者たちの間で、時には船団と船団との間で、夜を徹しての幾度にもわたる話し合いがもたれた。その結果、ケアルとエリはスキピオらの船団に乗船し、デルマリナへ向かうことが決定した。そしてまた、ギリ領主たっての希望により急遽《きゅうきょ》、ギリ領からも使者が出されることが決まり、彼らは五隻の船団のほうへ乗船したのである。  故郷を出航したのは、ほぼ同時だった。船数が多いこともあってか、五隻の船団はケアルたちの船団に比べやや遅れがちだったが、それでも航海の前半は常に視認できる距離にいた。かれらの船影が見えなくなったのはちょうど、雹が降ったあの日からだ。  気になったケアルは水夫頭に、むこうの船の安否を確認してほしいと頼んだのだが、丁重に断られてしまった。ケアルも、こちらは船を一隻失い、残る船も雹の被害がひどく、他船団を気遣う余裕などないのだろうと考え、それ以上強く言うことはできなかったのである。 「そうか……着いたんだ。良かった」 「んー。でもさ、無事だかどうだかはわかんねぇぜ。曳航がいるほど船にガタがきてるってんだからさ。確かあっちの船にゃ、ギリの爺いが派遣した連中が乗ってんだろ?」 「ああ。彼らのことも——心配だ」  本気で心配するケアルに、エリは軽く鼻を鳴らした。 「まあ、オレにゃ関係ねぇけどさ。そんなに心配だったら、ちょっとばかし見に行ってみねぇか?」 「見に行くって?」 「やつらの入港を、だよ。曳航される船なんつーの、いっぺん見てみたいしさ」  誘われて気持ちは動いたが、現在はなにしろ客分の身である。けれど、しばらくの逡巡《しゅんじゅん》のあと、いそいそとシャツを着込みはじめたのは、曳航され入港するという船の安否が気にかかったというより、外を見てみたいという好奇心に勝てなかったからだろう。 「じゃあ、ピアズさんとスキピオさんに、ひとこと言ってから——」  段取りを考えるケアルにしかし、エリは「バカじゃねぇの」と鼻に皺《しわ》を寄せた。 「おっさんたちに言うことねぇよ。だいたいこんな朝っぱらから外に出たいなんて言い出したら、おっさんらも困るだろうが。用意だの案内人をつけるだの始めたら、時間がかかって仕方ねぇしさ。やっと港に着いたものの、とっくに入港なんか終わったあとなんて、間のぬけたことになってるかもだぜ」  言われてみれば、確かにそうだ。 「ちょっと行って、すぐに帰って来りゃ、おっさんらはオレたちが出てったのも気づかねぇさ。したら、おっさんたちも余計な手間がかかんなくていいだろ?」  そう言ってエリは、悪戯坊主のようににんまり笑ってみせた。  うまく言いくるめられたというか、のせられたというべきか。かくしてふたりは誰にも知らせず、誰に見とがめられることもなく、屋敷を抜け出したのだった。    * * *  屋敷を出たもののふたりはすぐに、この都市では大小の運河こそが市民生活をささえる「道」なのだと、思い知ることとなった。  昨夜、港からピアズ・ダイクンの屋敷まで小舟に揺られて運ばれたおかげで港の方向はわかるものの、残念ながら今のふたりには交通手段といえば自前の二本の足しかなかったのである。たとえ小舟を使わずとも、おそらく港までたどり着ける道はあるのだろう。だがその道は、高い建物の壁にはさまれた幅狭く入り組んだしろもので、故郷の鉱山に蟻《あり》の巣のように掘りめぐらされた坑道と大差ないように思われた。  すぐさま音をあげたのはエリだった。 「んなとこ歩いてたら、日が暮れたって港なんかに着きゃしねぇぜ。だいたい今どっちに向かって歩いてんのか、わかるか?」  わからないとケアルが応えると、エリは狭い水路をむこうからやってきた小舟に向かって、大きく手を振った。  長い櫂《かい》を器用に操る船頭は、最初は関わり合いにはなりたくないと完全無視をきめこむつもりだったようだが、エリがぽんぽんと投げかける人懐っこい言葉にやがて興味をしめしたのか、ふたりのほうへ視線を向けた。 「オレたちゅうべ、デルマリナに着いたばっかなんだ。三ヶ月も船に乗って、やっとこ着いたんだぜ」 「あんたら、水夫か?」 「んー。オレはまあ、水夫の見習いみたいなもんだけど、こいつは違う。親父さんの名代《みょうだい》で、デルマリナに来たんだ」  船頭はじろじろとケアルをながめまわし、櫂を操って舟を寄せてきた。 「港に船が曳航されてくるのを見物に行きたいって、こいつが言い出してさ」  言い出したのはおまえだろう、とケアルが眉をしかめると、エリは黙って任せろとばかりにケアルの横腹を肘《ひじ》でつついた。 「なあ、ちょっと乗せてってくんねぇ? 港の近くまででいいんだけどさ」 「いくら出す?」 「へ? いくらって?」 「払うもん、払ってもらわないとな。まさかタダ乗りしようなんて、考えてんじゃないだろうな」  船頭の言葉に、ふたりは思わず互いに顔を見合わせた。  舟に乗るのに対価を支払う、という感覚はケアルにはなかった。もちろん故郷にも、五領に共通する貨幣制度はある。けれど、舟は大切な島の共有財産であり、その島の住人は当然のことながら、それ以外の人々が舟を使用しても対価を請求されることなど決してない。  エリもまた、ケアルと同様に感じたのだろう。船頭の言葉の意味がわからないといった様子で、首を傾《かし》げている。  だがケアルは少し考えて、納得がいった。 (ああ、そうか。島では舟は共有財産だけど、デルマリナでは船は個人の持ち物なんだった……)  舟と考えてしまうからいけないのだ。例えば故郷でも、驢馬《ろば》を使う荷運び人夫は当然、荷物や人を運びあげることに対価を請求する。それと同じだと考えれば、なんの不思議もない。  ケアルはエリに代わって前に出ると、船頭に向かって、 「すみません。おれたち、お金は持ってないんです」  すると船頭はあからさまに、侮蔑《ぶべつ》の表情を浮かべた。 「なんだ、文無しかよ」  吐き捨てるようにつぶやいて、長い櫂の先をくるりとひるがえし、舟を岸から離そうとする。ここで逃してはと、ケアルはあわてて声をかけた。 「確かに今は持ち合わせがないですが、滞在している屋敷にもどれば、それなりの支払いをすることはできます!」  そんな口約束があてになるか、と言いたげな視線が向けられる。 「では——、これではどうですか!」  せめて貨幣の代わりになるものでもないかと、上着の隠しをさぐったケアルは、指先に当たったものを出して頭上に掲げた。  それは、翼の修理や手入れに使う小型のナイフだった。刃渡りは小さいが丈夫で、翼の枠組みに使われる捻子《ねじ》をしめあげるために、翼を使う者ならば常に携帯しているものだ。ケアルのそれは、柄《つか》に鳥と波を模した細かな彫りがほどこされていた。 「お金はないけど、おれたちを港まで乗せていってくれたら、これをあげます」 「おい、ケアル——」  やめろよ、とエリがケアルの腕をつかんで首を振った。  船頭はナイフに興味をしめし、ふたたび舟を岸につけた。そしてケアルの手の中のナイフをまじまじとながめ、 「ほんとにこれを呉れるのか? あとんなって俺のことを、泥棒だと言い出すんじゃねぇのか?」 「そんなことはしません」  きっぱり言い切ったケアルと、横で「やめろよ」と合図するエリとを、船頭は交互にじろじろ見つめると、やがて顎を回した。 「乗んな。ちょうど港の近くへ行くところだったんだ」  小舟は港近くの市場へ、野菜を運ぶ途中だったらしい。肩を寄せあってふたり座ればいっぱいの幅の舟には、野菜を入れた木箱が積まれ、ケアルとエリはその箱の間に膝を抱え小さくなって座った。 「あんたら、どこに泊まってるんだ?」  舟の後部に立って櫂を操る船頭は、慣れた仕草で身体を動かしながら訊ねてきた。 「大きな運河に面した屋敷です」  ケアルの答えに船頭は、へぇと軽く目をみひらいた。 「ってことは、いいとこ泊まってるじゃないか」 「——そうなんですか?」 「なんですかって、あんたなぁ。そんなことも知らないのか? よっぽどの田舎もんなんだな」  言われてエリは鼻の頭に皺を寄せたが、ケアルは苦笑してうなずいた。 「まあ、若い者はみんな、都市に出て来たがるんだ。俺もそうだったから、あんたらの気持ちはわからないでもないけどな」 「おじさんは、ここの生まれじゃないんですか?」 「ああ。南のモラン地区の出だ。親父がくたばったんで、一旗あげようってんで家も畑も処分して出てきたんだが——まあ、いまだに野菜運びの船頭どまりだな」  ふんと鼻を鳴らした船頭を、ケアルは肩ごしに振り返って見た。日に灼けた肌に深い皺が刻まれた顔は、父とはそう変わらない年齢にみえる。 「あんたらも昔の俺と同じように、自分は絶対に成功すると思ってんだろ。水をさすつもりはないがな、現実ってのはあんたらが考えてる何百倍、何千倍も厳しいぞ」 「でしょうね」 「よっぽどの幸運ってものがなけりゃ、一旗あげるどころか、食ってくのがカツカツだ。田舎じゃまあ、うまいものは食えなかったが、飢えるってことはなかっただろ。ところが都市じゃ、飢えて物乞いする連中がごろごろいるんだ」 「そうなんですか」 「まあ、俺なんかは成功したクチだな。この舟は俺のもんだし、仕事もあるし。女房子供を飢えさせたこともねぇし」  自慢する舟はしかし、昨夜ケアルとエリが乗った舟とは比べものにならないほど古く、船頭が動くたびにギシギシと今にも壊れそうな音をたてる。 「若い者はみんな、自分こそはと思ってるがな。みんながみんなピアズ・ダイクンになれるわけじゃねぇ」  船頭の口から出た名に、ケアルはエリと顔を思わず見合わせた。 「ピアズさんを、ご存知なんですか?」  ケアルが訊ねると船頭は、こりゃ驚いたとおどけてみせた。 「ピアズ・ダイクンを知らねぇもんは、デルマリナ中どこ捜してもいないだろうさ。裸足で薬草売りをしてた孤児が、気がつきゃ大アルテの商人さまだ。あのひとが小アルテから大アルテになったときにゃ、てんで関係ない俺らも祝杯をあげたもんさ」 「——なぜですか?」 「そりゃあんた、あのひとは俺たちの希望だからさ。俺たちだって、たとえば幸運が百も重なりゃ、ひょっとしたら大アルテにだってなれるかもしれない——そう思わせてくれるもんな」  感心して船頭の話を聞いているケアルに、エリが耳打ちした。 「ピアズって、オレらが世話になってるあのおっさんのことだよな?」  いまさら何を言ってるんだ、とケアルがあきれてみせると、エリは「だってさ」と唇を尖らせた。 「オレにゃ、そのオヤジの言ってること、半分もわかんねぇんだもん。ケアルおまえ、わかって聞いてんの?」 「——半分ぐらいは」  少し考えて、答えた。 「んじゃさ、大アルテっての、なんだ?」 「なんか——手広く商売をしている商人のことらしい」  あやふやなケアルの説明に、エリは「そんだけかよ」と不満そうだ。しかしケアル自身、大アルテについては以前、若い水夫にごく簡単な話を聞いただけなので、これ以上の解説をもとめられてもお手上げ状態だった。  ただ、船頭の言葉や、あのときの若い水夫の言い方などから、デルマリナの人々が大アルテに対してどんな気持ちを抱いているのか、推測することはできる。  汗水ながして働かなくてもいい連中、と言ったのは若い水夫だった。この船頭は、大アルテの商人「さま」と、もってまわった言い方をした。 (そういえばおれも、よく言われたな)  ふと思い出して、ケアルは小さく苦笑した。故郷では自分が島人たちに、働かなくてもうまいものを食べられる身が羨《うらや》ましい、と噂されていたのをケアルは知っている。またケアルは、自分がいつも家令や領民たちに「領主さまのところの坊」と、もってまわった呼ばれかたをしていたのも知っていた。 「ケアル、港だ……!」  エリの声に、考えこんでいたケアルが顔をあげると、狭い水路のむこうに朝陽を浴びて光る水面がひろがっていた。倉庫らしい建物の上には、そのむこうに停泊する船の帆柱が何本も突き出てみえる。  船頭がゆっくりと小舟を岸に寄せた。エリはもう意識も視線も港と船に集中し、舟が完全に止まらぬうちに立ちあがると、船頭が文句をつけるのも聞かず、岸へ飛び移った。ケアルは舟が止まるのを待って立ちあがり、隠しから約束のナイフを取り出す。 「ありがとうございました。これを——」  しかし船頭は、差し出されたナイフをすぐには受け取らず、疑い深そうな目をしてケアルを窺《うかが》った。 「ほんとに、いいのか?」 「ええ。そういう約束ですから」  ケアルがうなずくと、船頭は奪うようにしてナイフを受け取り、すぐさま尻の隠しへ突っ込んだ。 「なにしてんだよっ、ケアル!」  すでに歩きだしたエリが、足踏みをしながら怒鳴っている。わかったと合図し、岸へ飛び移ったケアルがもういちど礼を言おうと舟を振り返ると、 「あんたら——もし帰りにも舟に乗りたかったら、この先の市場へ来な」  渋い顔をして、船頭がそう言った。 「蕪《かぶ》売りのモルに用があるって言や、だれかが俺んとこまで案内してくれるだろうさ。したら、また舟に乗せてやるよ」  言われてケアルは、目を軽くみひらき船頭の渋い顔を見なおした。 「えっ、でももう、おれは何も持ってないですけど……」  すると船頭は、ナイフを入れた尻をつるんと撫で、 「過ぎた代金もらったからな」  そう言って、のばした片足で岸を蹴《け》った。みしみしと今にも壊れそうな音をたて、舟が岸を離れていく。 「——ありがとう!」  ケアルが手を振り礼を言うと、船頭は渋い顔をくしゃくしゃにして、視線をそらした。船頭は振り返ってはくれなかったが、ケアルは舟が水路のむこうに見えなくなるまでずっと、手を振り続けたのである。    * * *  ふたりが港に着いたとき、曳航による船の入港はすでに始まっていた。  二本の突堤《とってい》で外の波から守られている港は、いびつな五角形をしている。港の中には三本の埠頭《ふとう》が突き出し、そこには現在、昨夜入港したケアルたちの乗った船を含めて九隻の船が接岸していた。  三隻の曳航船と長い縄で繋《つな》がれた船は、そこがいちばん接岸しやすいのか、左端の埠頭の先部分に近づきつつあった。港内のあちこちで荷揚げや荷積み作業をしていた人夫たちも、曳航される船が珍しいのか、単に興味があるだけなのかはわからないが、作業の手を止め眺めている。  左端の埠頭の根もとには、人夫には見えない長い上着の男たちが五、六人かたまって立ち、深刻そうな表情でひそひそと何か話しあっているのが見えた。 「うわぁ、ありゃすげぇな」  あたりはばからぬ声をあげたエリに、近くにいた人夫たちはもちろんのこと、少し距離をおいたところに立つ長い上着の男たちまでもが振り返った。 「帆が半分、なくなってるじゃん。途中で補給とかできなかったのかなあ?」  どう思う? と問われて、ケアルは周囲を気にしながら「かもね」とうなずいた。  ケアルたちが乗ってきた船も、ずいぶんあちこちが傷んでいる。帆桁の一部が傾いてしまっていたり、甲板の手すりが壊れていたり、船体そのものにも大小の傷がある。特にこうして港内で停泊する他の船と比べれば、長く苛酷《かこく》な航海を乗り切ったのだろうと素人目にもわかるほどだ。  だが曳航されてくる船は、それ以上だった。船首部分は岩壁にでも衝突したのかと思うほど壊れ、傷だらけの船体には一ヶ所、中が見えるほどの大穴があいている。帆はエリが言った通りの状況で、帆桁も右や左に傾いて、あれではたとえ帆が完備されていても満足に展帆はできないだろうと思われた。  船にはまったく素人のケアルでさえ、よくまあと首を傾げるほどの状況だ。日頃、帰還した船を見慣れている人夫たちは、なかばあっけにとられたような様子で、ひそひそと声を交わしている。 「戻ってこれただけで、こりゃもう、めっけもんだな?」 「ああ。よっぽど水夫の腕が良かったか、それとも船長がすげぇ馬鹿だったかのどっちかだろうがよ」 「けどよ。あの船いったい、どこへ行ってきたんだ? ここ一ヶ月、どっかですげぇ嵐があったなんて話、聞いたことねぇぞ」 「嵐とは限らんだろう? わしの知ってる船長なぞ、船主が金をケチったせいで、ぎりぎりの人数しか水夫を雇えなくてな。出航してたったの三日で船が岩場に突っ込んで終わった、なんて話も聞いたがな」 「でも、ありゃ岩場に突っ込んだ、って感じじゃねえけどな」  首をひねった人夫が、港の入口に目をやって「おっ」と口にした。 「あれ一隻じゃねぇのか。後から、二の三の……四隻も来るぜ」  人夫の言葉につられてケアルも視線を向けると、曳航される二隻めの船がちょうど入港してくるところだった。最初の一隻めに比べてまだ自力で進むだけの余力はあるのか、曳航船は一隻だけだ。 「ケアル、もうちょい近づいてみようぜ」  もう居ても立ってもいられない、といった様子でエリがケアルの腕を引く。うなずく間もなく、ケアルはエリに引きずられるようにして走りだした。  長い上着の男たちの横をすりぬけるとき、彼らの声が少しだけ聞こえた。 「——うちの船が」 「どうしてくれるんだ——責任は」  うちの船と言うからには、あの船の持ち主なのだろうか。エリに手を引かれながら男たちを振り返ったが、うちの船と言ったのは彼らのうちの誰なのかはわからなかった。  どこまで行くつもりなのかと思ったエリは結局、一隻目の曳航された船を見あげるほどまで近づいてやっと足をとめた。  曳航船が縄をはずして引きあげていくと、船から板が渡された。 「なんか、静かだな」  傷だらけの船を見あげながら、エリがぽつんとつぶやいた。  エリが言う通り、船上はひどく静かだ。帆桁の上に水夫の姿はなく、甲板を歩きまわる足音も話し声も聞こえない。  渡された板の上を最初に降りてきたのは、ケアルも見おぼえのある顔だった。故郷の公館で、父との話し合いに出席した男たちのひとりだ。 「ありゃ、船長か?」  小声でエリに訊ねられ、ケアルは男を見ながらうなずいた。  男はだるそうにケアルとエリを一瞥しただけで、数人の水夫を後ろにしたがえ、横を通りすぎていった。おそらく、ケアルが何者なのか気づいていないのだろう。というより、遠い異国で会った人間に、長い旅路の果てにようやくたどり着いた故郷でまた会えるとは、ふつう思わないに違いない。  彼は重い足どりで埠頭を進み、長い上着の男たちの前で止まると、深々と頭をさげた。男たちは身を乗り出して、彼を糾弾《きゅうだん》しているように見える。  船が傷ついたことを怒っているのだろうか。そうだとしたら、船長の彼を糾弾するのはあまりに気の毒だ。 「おい。水夫の数がえらく少ないぜ」  男たちのほうに気をとられていたケアルにエリが、船上を見あげて話しかけてきた。 「少ない、って?」 「ざっと見、二十人いるかどうかだ。入港に手がかかんなかったから、船倉で寝こけてんのかもしれねぇけど」 「でも——何ヶ月ぶりかで帰ってきたんだから、いくらなんでも寝てるなんてことはないんじゃないか?」  辛い航海であったぶん余計に、早く故郷を見たい、故郷の地を踏みたいと思うはずではないだろうか。 「だよなぁ……」  うなずいたエリは、よっしゃとつぶやくとケアルから離れ、船首のところで作業をしている水夫たちのほうへ近づいた。 「なあ、おい! なんか手伝うことはねぇかっ?」  エリが大声をはりあげると、こいつ何者だ、というような視線が彼に注がれる。水夫たちは互いに顔を見あわせ、やがてひとり年嵩《としかさ》の水夫が、 「手伝ってもらうようなこたぁ、なんもねぇよ」  あっちへ行けとばかりに、しっしっと手を振ってみせる。だがエリはそんなことでは引きさがらなかった。 「えーっ、だってすげぇ人数少ねぇじゃん。手ぇ足りねぇんじゃねぇの?」  無邪気を装ったエリの言葉に、水夫たちはふたたび互いに顔を見合わせる。 「オレ、めちゃめちゃ使えるぜ。ひとりで三人分の働きをする、ってよく言われるし。おまけに気もきく。雇《やと》って損はねぇって」 「働き口がほしいなら、他に行きな。出航前に水夫をかき集めてる船なら、そこらにいっぱいあるだろうが」  水夫はぐるりと腕をまわして、港内に停泊する船たちを指さした。だがエリは小さく唸って首のうしろに手を当てると、 「それがさ、ダメなんだよ。おふくろが身体弱いもんで、オレは長く留守できねぇんだ。航海なんか出たら、いつ戻ってこれるかわかんねぇだろ。それ、マズいんだよ」  それまで渋い顔をしていた水夫たちの視線が、エリの上に集まった。 「親父は、いねぇのか? 兄弟は?」  船上から身を乗り出して、水夫のひとりが訊ねる。 「兄弟はいねぇし、親父はオレがガキの頃に死んだんだ。おふくろには、オレしか身内はいねぇから——」 「そうか……」  しみじみと相槌《あいづち》をうった水夫は、仲間の水夫たちと視線を合わせ、うなずきあった。 「じゃあ、小僧。ますます他をあたったほうがいいぜ。悪いこた言わねぇからさ」 「なんでだよ」 「この船は、呪われてんだよ。いや、この船だけじゃねぇ。船団になった五隻ぜんぶが、呪われてんだ」  まじめな顔でそう言った水夫に、エリが吹き出した。 「なんだよ、それ」  腹を抱えて笑いだした親友にケアルは、あわてて船上の水夫たちをうかがった。 「なにがおかしいっ!」  年嵩の水夫が、あきらかに気を悪くして怒鳴る。 「えーっ。だってさあ、呪いなんてなぁ——いまどき島のガキどもだって、そんな話じゃ怖がりゃしねぇっての」  失礼だよ、笑うなよ、と懸命に合図を送るケアルにも気づかず、エリは自分の言ったことにまた笑いを誘発された様子で、げらげら声をあげて笑った。  それまでケアルのところからは、船首にいる三人ほどの水夫しか見えなかったが、エリの笑い声になにごとかと、こちらにひとり、あちらにふたりと船縁《ふなべり》に水夫たちが集まってきた。かれらは仲間からエリが笑っている理由を聞き、顔色を変えた。 「なんにも知らねぇ小僧っ子が、大口あけて笑ってんじゃねぇよっ!」  ひとりが怒鳴ると、あとはもう連鎖反応のように声が降ってきた。 「俺たちはな、地獄を見たんだぞ!」 「そうだ。出航のときは五十人いた水夫が、帰ってきたときにゃ半分だ」 「残ったやつらだって、五体満足で帰ってこれたなんてのは、ほんの十二、三人ぐらしかいねぇんだぜ」  水夫たちが船上から口々に怒鳴る様子は、雹が降ったあのとき、沈みゆく船から少しでも多くの仲間を助けたくて叫んでいた水夫たちの姿を彷彿《ほうふつ》させた。怒りではなく、悲しみと悔しさに顔色を変え、船縁にしがみついて叫んでいたかれらの姿を。  エリにもなにか感じるところがあったのかもしれない。笑いはいつの間にか引っ込み、真剣な目をして船上を見あげていた。 「なあ、おい——!」  呼びかけるエリの声に、水夫たちの怒鳴り声が小さくなった。 「それ、ほんとなのかよ? 半分になったって、それ——死んだのか?」  返事はなかったが、水夫たちは波をうったように黙りこみ、不器用に目をそらした。 「なんで、そんなことになったんだ? 船は五隻とも全部、帰って来れたんだろ? あっちこっち壊れちゃいるけどさ」  なのにどうして? とエリは問いかけようとしたのだろう。だがふいに口をつぐんで足もとに目を落とし、続いてすぐに顔をあげると、 「もしかして、雹か? あんときの雹で、みんなやられたのか?」  ケアルからも、水夫たちがぎょっとしてエリを凝視するのが見えた。 「な……なんでおまえ、知ってんだ」  かすれた水夫の声。 「やっぱ、そうなのか? 雹に——」 「なにを揉《も》めているっ!」  ふいに背後から声がして、エリもケアルも跳ねるように振り返った。 「ほら、おまえたち! さっさと仕事にもどれっ!」  船上の水夫たちに向かって声をはりあげたのは、さっきまで埠頭の根もとで立ち話をしていた長い上着の男たちだった。船主の登場に、水夫たちはあわてて各自、仕事へともどっていく。  それを見届けると、男たちの視線はふたたびエリとケアルにもどされた。 「見たところ、おまえは水夫のようだな」  エリをじろじろと眺めまわしながらそう言ったのは、かれらの中でいちばん偉そうな態度をした男だった。改めてかれらを見ると、服装や態度などから、五人いる男たちのうち船主らしきのはふたりだけで、あとの三人はそのふたりの家令だろうと想像できた。 「ここには、おまえごときにやらせるような仕事はない。あっちへ行け、邪魔だ」  汚いものでも払いのけるように、男はしっしっと手を振る。 「邪魔はしてねぇよ。半日でいいから、雇ってくんねぇかな」  少しもめげずにエリが返すと、その男は船上に向かって声をはりあげた。 「おいっ! だれか、この聞き分けのないガキをなんとかしろ!」  船上から水夫が二、三人顔をだしたのを見てとって、ケアルはあわててエリに駆け寄り、親友の腕を取った。 「——エリ、帰ろう」 「なんでだよ」  唇を尖らせるエリに、小さく「まずいよ」と囁《ささや》く。  船主の命令にしたがって水夫たちが降りてくれば、エリも無事ではすまないだろう。それになにより、ここで騒ぎを起こしては、滞在先のピアズ・ダイクンに迷惑がかかる。 「もう、いいから」  何度もかぶりをふり、ぐいぐいとエリの腕を引く。すると、男たちの中のひとりが得心したように「ほお」とつぶやく声が聞こえた。 「なるほど、そういうことか」  おそらくもうひとりの船主だ。歳のころは四十前後か。黒い巻毛を綺麗に整えた、線の細い優男だった。 「きみたちは知り合いか——いや、仲間と言ったほうがいいのかな?」  口もとに笑みを浮かべてはいたが、男の目は少しも笑っていなかった。もうひとりの船主より言葉づかいも丁寧だったが、ケアルには故郷で公館の家令たちが領主の三男坊に向かって話しかけるのと同じ、慇懃無礼《いんぎんぶれい》さを感じずにはいられなかった。 「友人です」  きっぱり答えてケアルはもういちど、エリの腕を引いた。 「帰ろう」  真剣なケアルの表情に気圧されたように、エリがうなずく。  ふたりが踵をかえすと、船上に呼びかけた船主が水夫たちに「仕事にもどれ!」と怒鳴るのが聞こえた。  船上では水夫たちが船主に見せつけるように、威勢のいい声が飛び交いはじめた。人員が半数になってしまったことを船主たちに忘れさせようとでも考えているのか、わざとらしいほど足音が大きく響く。  男たちの横を通りすぎるとき、ケアルは巻毛の男の視線を全身に感じた。だが咎める声はかからず、ほっとしかけたものの、 「きみたち——」  呼びかける声に、反射的に振り返った。 「ピアズ・ダイクンどのに、よろしく伝えてくれないか」  目を細めた巻毛の男が、ケアルとエリを見ながらそう言った。ケアルははっと目をみひらき、男の顔を見直す。すると男は、口もとに笑みを浮かべた。  やられた、とケアルが思ったのはその瞬間だ。おそらく男は、確信をもってピアズ・ダイクンの名を口にしたのではないのだろう。だがこちらが反応したことで男は、ケアルとエリがピアズ・ダイクンに無関係の人間ではないと確かめたに違いない。 「あいつ、おっさんのこと知ってるみたいだぜ?」  呑気に足をとめ振り返るエリを、ケアルは腕を引っぱり、歩けと促《うなが》す。 「なんだよ。おっさんの知り合いなら、挨拶とかしなくていいのかよ?」 「——いいんだ」  短く応えながらケアルの足は、自然と速くなる。  悪戯をみつけられた子供の気分だった。もちろん、悪いことをしたわけではない。なのに、どこかうしろめたいような感覚がぬぐえない。  うしろを振り返らず、どんどん歩くケアルに、エリは不審そうではあったが、それ以上はなにも問わず足を運んでくれた。  ケアルが最後にようやく振り返ったのは、埠頭を離れるときだった。渡された板をのぼっていく男たちの姿と、二隻めの船が埠頭をはさんだ反対側にゆっくりと接岸する様子が見えた。  次々に曳航され入港してくる船を眺めていた人夫たちは、すでに仕事にもどっている。かれらの掛け声や荷を吊りあげる滑車の音が響き、港のこちら側は活気があった。けれど視界の隅にどうしても入る曳航された船の姿は、その活気に水をさしているようにケアルには感じられた。      4  その朝ピアズ・ダイクンは、激しく扉をたたく音と家令の切羽詰った声に起こされた。寝起きのよさは折紙つきの彼だが、明け方近くまでスキピオと話し込んでいたおかげで、眠気に朦朧《もうろう》としながら寝台を離れた。  扉を開けると、家令が朝の挨拶もせず、いきなり早口で叫んだ。 「たいへんですっ! お客さまが、いらっしゃいません!」  頭に響く声に眉をしかめ、だが次の瞬間、完全に目がさめた。 「お客というと、昨夜到着したおふたりのことか?」 「そうです。そろそろお目ざめかと、お部屋をうかがったら、寝台にも洗面所にもいらっしゃらないのです」 「おふたりとも?」  ピアズの問いに、家令は泣きそうな顔をしてうなずいた。すぐさまピアズは寝台にもどってガウンを羽織り、部屋を出る。 「部屋の中だけではなく、他もお探ししてみたのか?」  客室に続く幅の広い廊下を早足で歩きながら、あとをついて来る家令に訊ねた。 「はい。邸内はもちろん、裏庭も中庭も手分けしてくまなくお探ししました」 「早くに目ざめられて、朝の散歩に出られたのかもしれない!」 「ええ。そうも思いまして、近辺もお探ししたのですが、いらっしゃいません」  客室の前には別の家令が、おろおろとした様子で立っていた。ピアズの顔を見ると、まだ戻られていませんと首をふる。  家令に先導させて客室に入ったピアズは、まず寝台を確かめた。客人の性格なのか、寝乱れたあとはなく、ぴんと張った敷布には温もりも残ってはいない。 「客人の持ち物は?」  こちらですと示された先には、昨夜運び込んだ大きな荷物入れが据えられている。ためらいはあったがピアズは蓋を開け、中を確かめた。  丁寧にたたまれた衣類と、本が数冊。衣類の間に天鵞絨《びろうど》の袋があり、開けてみると青く光る石が出てきた。専門ではないがピアズにも、おそらく高価な宝石だろうとわかる。  中をあらためたと客人に知れないよう、ピアズはそっと石を袋にもどし、衣類の間にはさみ込んだ。そして心配げに立つ家令を振り返り、 「だいじょうぶだよ。じきに、戻っていらっしゃるだろう」 「そうでしょうか……? いらっしゃらないのがわかってから、もうずいぶん経っていますが——」 「心配しなくていい——だが」  デルマリナの貨幣など持っていないだろう客人が、おそらくその代わりに持参した宝石類を置いて、そう遠くまで出かけられるものではない。 「ただもういちど、邸の外を探させなさい。ちょっとした散歩のつもりが迷って、帰れなくなってしまわれたかもしれない」  主人の言葉に家令は大きくうなずき、部屋を走り出ていった。  なんとも人騒がせな客人だが、その気持ちはわかる。おそらくピアズ自身、かれらと同じ立場であったなら、同じようなことをしたに違いない。  客室を出たピアズは、廊下のむこうでこちらをうかがっている愛娘の姿を見つけ、苦笑した。好奇心|旺盛《おうせい》な彼女は、寝間着の上にガウンを羽織っただけの格好で、当然のことながら髪を整えてもいない。 「マリナ。若い娘が邸内とはいえそんな格好で、歩きまわるものではないよ」 「だって、お父さま。うるさくって、眠れやしないんですもの」  言い訳にもならないことを言いながら父のもとへ駆け寄ってきたマリナは、興味津々《きょうみしんしん》の目をして客室をのぞきこんだ。 「だめだよ、マリナ」  かぶりをふってピアズは、うしろ手に扉を閉めた。 「お客さまは、いらっしゃらないの?」 「ああ。散歩に出ていかれたようだ」 「田舎者って、朝が早いのね」  娘の言いように、苦笑するしかない。 「じきに戻っていらっしゃるだろう。朝食の席でおまえにも紹介するから、早く部屋に戻りなさい」 「どんなかたなの、お客さまって?」 「若い男性だ。おまえより二つ三つ年上じゃないのかな」 「背は高い? 太ってるの、痩せてるの? お顔はどんな感じ?」 「——マリナ」  いくらでも質問してきそうな娘を、ピアズはたしなめた。  ほんとうにこの娘は、いったいだれに似たのだろう。顔や姿は彼女が三歳のときに亡くなった妻に生き写しだが、物|怖《お》じせず好奇心旺盛なところは、母親にはまったくなかった性質だ。  ピアズの妻は、病的なほど気の弱い女だった。だからこそ父親の言うままに、使用人でしかなかったピアズと結婚したのだ。  片目が潰れ、商人としては逞しいピアズの容貌は彼女を怖がらせ、最初の一年は夫に触れられるたび、彼女は身を震わせていた。だが、やがて生まれた娘を目の中に入れても痛くないほどに可愛がるピアズの姿に、彼女も次第に心をひらいていった。  赤ん坊を間にして、ふたりは夫婦というよりも我が子を守る対等な仲間だった。あれほど気の弱い彼女が、母親となるとこんなにも強くなれるものかと、ピアズは感心したものだ。  彼女が亡くなってから、そろそろ十四年。いまもピアズが思い出すのは、娘時代の彼女ではなく、わずか三年に満たない期間の母親としての彼女の姿だった。亡くなる瞬間まで我が子を心配し、ピアズは死にゆく妻に、必ず自分の手で立派に育ててみせると誓ったのである。 (あの娘が、もう……)  あきれたふりを装いながらも、ピアズは誇《ほこ》らしい気持ちで、生き生きとした愛娘の横顔をながめる。 「おまえももう、嫁いでもおかしくない歳になったのだから。もう少し落ち着いてほしいものだよ」  ピアズが言うと、マリナは黒い目をまん丸にみひらいた。 「お父さまったら、まだあきらめていらっしゃらなかったの?」  マリナと、大アルテの中でもその財力は五指に入るといわれるエルバ・リーアとの結婚の噂がひろまったのは、半年ほど前のことだった。エルバ・リーアは、大・小アルテで構成される市民の代表機関「人民評議会」の最高執行機関である「総務会」の一員に名をつらねており、ピアズはその総務会の内部分裂をはかってマリナとの結婚の噂を流布させたのである。  噂はたちまち広まったものの、いつまで経っても婚約の発表さえなく、あきやすいデルマリナ市民は今では結婚の噂が立ったことさえ忘れているにちがいない。一方ピアズが意図した総務会の内部分裂のほうは、現在のところまだこれといった効果は出ていないようにみえる。 (効果があらわれるのは、もう少し先になるはずだ——)  いざ事が起こったとき、総務会の面々は以前に流れた噂を思い出すだろう。そしてそれこそが、決定的な内部分裂の引き金となるにちがいない。 「マリナ、私はなにもエルバ・リーアどのとの結婚話を言っているわけではないよ。おまえの母は、おまえの歳にはすでに私と結婚し、身ごもっていた。ちゃんとした家の娘だったら、結婚はまだにしても婚約ぐらいしている年齢だと言いたいんだよ」 「あら。それって、変なお話だわ。お父さまはいつも、おっしゃってるじゃない? 大アルテの連中は頭がかたい莫迦ばかりだ、自分たちのやり方を最上だと思ってて、それを変えようとしない、って」 「——マリナ」 「頭が柔らかくてお利口なお父さまはもちろん、みんながそうするからおまえもそうしなさい、なんておっしゃらないわよね?」  どこでそんな理屈を身につけたのか、小憎たらしい言いようをする、けれど愛しい娘を見おろして、ピアズはため息をついた。 「まったく口のへらない娘だ。いったい誰に似たのだろうね」 「お父さまよ、当然」  にっこり笑ってそう答えたマリナは、ガウンの裾《すそ》を軽く持ちあげ優雅な礼をすると、踵を返した。  踊るような足どりで去っていく娘の若々しいうしろ姿をながめながら、ピアズは再度ため息をついた。立志伝中の人物、切れ者の商人とデルマリナ中に知られ、尊敬され怖れられてさえいるピアズ・ダイクンが、これほど娘に甘いと知る者はいないだろう。 (いや、甘いというより弱いのかもしれないな……)  困った参ったと言いながら、どこかそれを楽しんでいるところのあるピアズだった。    * * *  ふたりの客人がようやく帰ってきたのは、もう昼近くになろうとする頃である。  家令たちの半数が朝から仕事も放りだして自分たちを探していたなどとは露とも思っていなかったらしいかれらは、邸まで送ってくれた小舟の船頭と舟着き場でしばらく立ち話などしていたらしい。報告をうけたピアズが駆けつけてみると、かれらは遠ざかる小舟を見送っているところだった。  舟が見えなくなり振り返ったふたりは、そこにピアズがいることに驚いたようだ。 「えっと、あの、これは……」  はっとして言い訳しはじめたのは、ケアル・ライスという赤毛の青年だった。領主の息子である彼の丁寧な言葉づかいやおっとりとした態度は、いかにも育ちが良さそうだと思える反面、これが領主の名代として寄越された人物なのかと、ピアズは多少複雑な気持ちにならずにいられない。 「あ、おっさん。おはよ!」  一方、その場の雰囲気も察せず呑気に挨拶などしてきた青年は、ケアル・ライスの友人だという。領主が息子につけ使者として寄越したのだから、実はそれなりに見所のある人物かもしれないが、なんとも礼儀知らずで良くいえば野性的、悪く言えば無教養きわまりない青年である。彼の父親はデルマリナの船乗りだというから、あるいは領主も彼の人品骨柄《じんぴんこつがら》を考えてではなく、デルマリナに縁が深い人物ということでエリ・タトルという青年を選んだのかもしれない。  なんにしてもピアズには、このふたりの青年をよく知る必要があった。いや、かれらをではなく、ふたりを寄越した領主を、というべきだろう。 「お声もかけず、勝手に外出してしまいまして、申し訳ありませんでした」  ケアルはそう言って頭をさげながら、隣に立つ友人の背中をぐいぐい押した。促され仕方なくといったそぶりで、金髪の青年も頭をさげる。 「いやいや。そんなことより、朝早くから出かけられて空腹なんじゃありませんか?」  ピアズが笑顔をつくって言うと、真っ先に反応したのはエリ・タトルだった。 「うん、すげぇ腹へってさ。船頭のおっちゃんがメシおごってやるって言ってんのに、こいつってば断わりやがるもんだから」  さりげないピアズの皮肉は、この青年には全く通じなかったようだ。 「エリ……!」  こちらは皮肉がわかったのだろう、友人をたしなめると「すみません」とふたたびピアズに謝った。 「まあまあ——食事の用意は整えてあります。すぐに案内させますので、どうぞ」  間をはかって駆け寄ってきた家令に、食堂へ案内するように耳打ちする。ふたりが家令に先導され、邸内に入っていくうしろ姿を見送ってから、ピアズは別の家令を呼んだ。 「さっき、お客人を送ってくれた舟の船頭を探しなさい。おそらく、市場に野菜を運んでいる舟だ。四十代なかばぐらいの、黄色い髪の男で——たぶん、南のモラン地区かビスティ地区の出身者だと思う」  探しだしたらすぐに報告するようにと言い置いて、ピアズは踵をかえした。  各市場に野菜を運ぶ舟は、デルマリナ全体では百艘近く存在するだろう。だが市場をこの近辺と考えれば、三、四十艘に絞られる。船頭の出身地区を限定すると、おそらく片手ほどの数になる。若いころは市場で物売りを経験したこともあるピアズは、発音を聞けば相手の出身地区の見当がついた。  朝早くから邸をぬけだし、ふたりの客人はどこへ行ったのか。あの船頭が、かれらとどんな会話を交わしたのか。そして、かれらはなにを代価に、舟に乗せてもらうことができたのか。 (あのふたりに直接訊いてもいいが、はたして虚偽なく答えるかどうか……)  その回答|如何《いかん》によっては、かれらに対する見解をあらためなければならない。  はたしてあの青年たちは第一印象通りの人物なのかどうか、ピアズは食堂へと足を運びながら口端に微笑を浮かべた。  客人たちにマリナを紹介したときの、彼女の猫っかぶりは相当なものだった。 「マリナ・ダイクンです」  襞《ひだ》のたっぷりと入った緑地のドレスの裾を軽くつまみ、恥ずかしげに顔を伏せて頭をさげる。その姿はどう見ても、純情で内気な箱入り娘にしかみえなかった。  ケアル・ライスはそんなマリナに、しゃちほこばって頭をさげ返した。けれどもうひとりの客人エリ・タトルは、マリナの顔をのぞきこみ、ひゅっと口笛を吹いた。若い水夫たちが婀娜《あだ》っぽい女を前に、よくやるような仕草だ。  あわててケアルが目顔《めがお》で友人をたしなめたが、彼はそしらぬふりで今度は、部屋のあちこちを見回している。ピアズはすぐ横で娘が不快感もあらわに肩を震わせるのがわかり、思わず苦笑した。  食事を前に家令が気をきかせて、客人を着替えさせたらしく、先ほどは水夫そのものといった格好をしていたエリも、今は友人と同じく、さっぱりとしたシャツを着て、礼儀にかなった上着を身につけている。しかし外見が変わったからといって、中身も上品になるはずはない。  涼しい顔で席に着いたエリは、うるさそうに衿《えり》もとを寛《くつろ》げ、それがまたマリナに眉をしかめさせた。  食事中の会話はもっぱら、ピアズとケアルの間で交わされた。 「おふたりと朝食をご一緒しようと、スキピオ船団長もしばらく待っていたのですが。つい先ほど、船の様子が気になるとかで、港へ向かったのですよ」  ピアズの説明に、ケアルは食事の手を止め目を軽くみひらいた。 「港へ?」 「そうです。なにか、不都合でも?」 「いえ。だったら、行き違いになってしまったのかと思いまして」  ほう、とピアズは目を細めた。 「ということは、おふたりは港へ行かれたのですか?」 「ええ。船が曳航されるらしい、と聞いたので」  その情報は、ピアズもすでに得ていた。明け方そろそろ寝入るころに、報告を受けたのだ。港湾関係者に金をばらまいておいたおかげで、そういった情報はどこよりも誰よりも早く手に入れることができる。 「いかがでしたか、曳航された船は?」  ピアズの問いに青年は、痛ましそうに表情をくもらせた。 「なんというか……よく戻って来れたなと思えるような状況でした」 「そうですか。確かあの船団は、あなたがたと同じ日にハイランドを出発したそうですね」 「ハイランド……?」  きょとんとして首を傾げた青年に、ピアズは「失礼」と言って苦笑した。 「私どもは、あなたがたの故郷をそう呼んでいるのですよ。高い崖の上に街があるとのことで、便宜《べんぎ》上、ハイランドと」 「ああ、なるほど」 「あくまでも便宜上ですので、皆さんが日頃呼んでいらっしゃる名があるのでしたら、ぜひお教えください」  ピアズが言うと、青年は考えこむ様子で友人へ視線をやった。だが友人のほうは、銀のナイフとフォークを手に、いかにして食べるべきかに全精力を傾けているらしく、彼の視線にも気づいていない。 「いえ……我々は、それぞれライス領だとかギリ領だとか呼んでいるので。五領を総称する名は、おそらく公的にも定められていないはずです」  なるほど、とピアズはうなずいた。自他の区別をつける基準が、お互いの五つの領しかなかった世界において、それを総称する呼び名などあるはずがないのは当然だ。 「では暫定《ざんてい》的に、ハイランドとお呼びして構いませんか?」  訊ねられ、いったんはうなずきかけた青年だったが、 「それは——我々の一存では、決められません。デルマリナの皆さんがそうお呼びになるのは、構わないとは思いますが」  そう応えた彼を、慎重とみるべきなのか、それとも領主の名代とは名ばかりの役に立たぬ使者とみるべきなのか。現時点では、決めかねた。 「わかりました。では便宜上、暫定的に、こちらで勝手にそう呼ばせていただくことにしましょう」  微笑んでひとまずその話題を打ち切ると、ピアズは話をもとへもどした。 「スキピオ船団長に聞いたところによれば、途中激しい雹に遭われたとか。曳航された船団はやはり、雹が原因のようでしたか?」 「おそらくは……」  ふたたび痛ましそうな表情で、青年は俯《うつむ》いた。 「あら。雹ぐらいで、船が壊れるものなんですの?」  身を乗り出したのは、マリナである。箱入り娘を気取っていた彼女も、とうとう好奇心には逆らえなくなったようだ。 「船って、何ヶ月も風にさらされて激しい波をうけて、それでも平気なんでしょう? だったら雹ぐらい——」  もの知らずのマリナを笑うことなく、ケアルは真面目な顔で拳をつくってみせた。 「このぐらいの大きさの雹だったんです。それが空から、無数に降ってきたのです」 「まあ……!」  口もとに手を当て、マリナは大きく目をみひらいた。 「そんな大きな雹……! わたくしも見てみたかったわ」  マリナがつぶやいたとたん、それまでナイフとフォークを相手に格闘していたエリが会話に割り込んだ。 「お嬢さんなんかがあれを見たら、びっくりしてひっくり返ってしまうだろうさ」  あきらかに嫌味の混じった口調に、マリナが眉をつりあげる。 「エリ、そんな言い方は……」 「あれを見てねぇやつに、なんだかんだ言われたくねぇんだよ」  彼はケアルにそう言うと、マリナのほうへと向き直り、 「でっかい雹が、どかどか落ちてきたんだ。オレのすぐそばにいた水夫は、直撃くらって頭にでかい穴があいて、血《ち》塗《まみ》れになって死んだ。帆桁にのぼってたやつは、雹と一緒に甲板にたたきつけられて、やっぱりいっぱい血を流して死んだ。まだ息があったやつもいたけど、オレたちは雹を食らうのが怖くて、近寄ることもできなかった。甲板はあっという間に雹と血でぐちゃぐちゃになって——」 「やめて!」  両耳をおさえて、マリナが叫んだ。 「お願いだから、やめてちょうだい!」  青年は唇を歪《ゆが》めて口を閉じると、椅子を引いて立ちあがった。 「エリ……!」 「悪いな。オレ、あんときのことをメシ時の話題にゃできねぇんだ」  泣き笑いのような表情でケアルにそう言ってから、彼はピアズに向かってぺこりと頭をさげた。 「すみません。メシ、うまかったです」  ピアズが止める間もなく、彼は卓を離れ部屋を出ていった。あわててケアルも立ちあがり、友人と同じように頭をさげる。 「あの——すみません」 「いや。こちらこそ悪かったと、彼に伝えてほしい」  あわただしくうなずいたケアルは、友人のあとを追いかけ、部屋を出ていった。  残されたピアズは脱力し、椅子の背にもたれかかって深いため息をつきながら、マリナへと視線をやる。顔を青ざめさせた彼女は父親と目が合うと、ふいっと顔をそむけ、 「食事の最中に席を立つなんて、礼儀知らずもいいところだわ」  あきらかに強がりとわかる言葉だったが、ピアズは軽く頭をふり、娘に語りかけた。 「いまのは、おまえが悪いよ」 「わたくしのどこが——」 「雹で船を一隻失ったことは、おまえにも話したはずだ。どれほどの被害なのか、想像はつくだろう。なのにおまえは、そんな大きな雹を見てみたかったと言ったね」 「だって、見たことないんですもの」  不服そうに唇をとがらせる。 「それに……ひどい被害って、あそこまでひどかったなんて、思いもしなかったもの……」  肩を落として膝に乗せた布巾を握りしめる愛娘を見おろし、ピアズは目もとをゆるませた。 「そうだね。おまえは自分が悪かったのだと知っている。だったらあとは、どうすればいいのか——わかるね?」  震える小さな頭が、かすかにうなずく。 「では、行っておいで」  ゆるゆると立ちあがり、何度も父親を振り返りながら部屋を出ていった娘を見送って、ピアズはふたたびため息をついた。  卓には、ほとんど手をつけられていない皿が並んでいる。客人のためにと腕をふるった料理人は、この皿を見てさぞ気を落とすことだろう。いや、それもあるが——若いあのふたり、気持ちが落ち着けば腹がへったことを思い出すに違いない。  家令を呼んで、軽くつまめる食べ物をお客人の部屋へ届けるよう命じると、ピアズも立ちあがった。      5  苛立《いらだ》たしげに足音をたてて歩くエリに追いついたケアルは、親友の横に並ぶと、黙って歩調を合わせた。  触れれば切れそうな感情の波が、エリから伝わってくる。自分でもその感情をもてあましているのか、歩きながらも両手がせわしなく動く。髪をかきあげ、衿をひっぱり、袖をまくりあげ、幼い子供がするように親指の爪を噛む。  あてがわれた部屋の前まで来て、エリはふいに立ちどまり、ケアルを見た。 「ごめん。オレなんか、すげぇガキっぽいことしてるよな」 「そんなことはないよ」  かぶりをふって、ケアルは苦笑した。 「実はおれも、ちょっとばかり腹が立ったんだ。もちろんおれはエリのように、雹が降ったとき甲板にいたわけじゃないが——」  あのときのことは、あとになってもエリは話題にしようとしなかった。エリが自ら話さない以上、ケアルもまた話してくれと言うことはなかった。 「そっか……。でもやっぱ、ごめん。デルマリナに来てからオレ、ケアルの足をひっぱってばっかいるみたいだ」  そんなことはないと、ケアルは繰り返した。エリが側にいてくれて、どれほど心強いことか。 「エリが一緒だと、なんでもできそうな気がするんだ」  親友の言葉に、エリは小さく笑った。 「んなこと言ったらオレ、つけあがるぞ」 「つけあがっていいよ」  笑って親友の背中をたたき、部屋へ入ろうとしたふたりに、廊下のむこうからか細い声がかかった。 「あの——わたくし……」  声の主がマリナ・ダイクンだとわかると、エリはあからさまに眉をしかめた。 「なにか?」  おとなげない親友の態度に苦笑し、ケアルが訊ねる。 「さっきのこと、謝ろうと思いましたの」 「いまさら謝られたって、困るんだよな」  エリに睨まれ、マリナは胸もとで拳を握りしめた。その手が小さく震えている。  目顔でエリをたしなめ、ケアルは彼女に笑いかけた。 「こちらのほうこそ、食事の途中で席を立って申し訳ありませんでした。先ほどのことは気になさらないでください」  ケアルの言葉と笑みに、マリナの緊張した表情が少しだけゆるんだ。若々しい白い肌に、すうっと血の気がもどっていく。  黒々とした目でじっと見つめられ、ケアルはたじろいだ。これまで、公館で集まりがあるときなど、綺麗に着飾った若い娘は何人も見てきた。だが彼女たちにこんなふうに、間近でのぞきこまれるように見つめられたことなどない。 「えっと……その、わざわざ謝りに来てくださったんですか?」 「はい」  愛らしい仕草でうなずかれ、ますますケアルは途方にくれた。こんなとき口にすべき気のきいた言葉など浮かばない。 「わざわざ、ありがとうございます。ほんとにおれたち気にしてませんから、気に病まないでください」 「許していただけるんですの?」  それはもう、とうなずいてみせる。すると彼女はやっと、にこやかな笑みをみせた。  ではと軽く膝を曲げて挨拶し、彼女が踵をかえしたときは、心底ほっとした。そうして、まだ表情の険しいエリを促し、部屋へ入ろうとしたのだが、 「あら。それ、なあに?」  廊下のむこうからマリナの声が聞こえ、あわてて振り返った。見れば、銀の盆を掲げた家令に彼女が話しかけている。  なにをしているのだろうと思う間もなく、家令から銀の盆を受け取った彼女が、ふたたびこちらへやってきた。目が合ってにっこり微笑まれ、ケアルも思わずつられて笑みを浮かべる。 「おいっ、にやけてんじゃねぇぞっ」  背後からエリが耳打ちし、脛《すね》のうしろを蹴りあげられた。 「そんな……っ、にやけてなんかないよ」 「ほー、そうかよ」 「だって、女性を相手にまさか、恐い顔なんかできないだろ」 「ああいう女は、甘い顔したらつけあがるんだぜ」  声をひそめて言い合っているふたりに、近づいてきたマリナが首をかしげる。なにか? という目を向けられ、ケアルはあわててなんでもないと首をふった。 「これ、軽食ですの。お食事の途中でしたから、お腹がお空きなんじゃありません?」  そう言ってマリナが掲げてみせた盆の上には、焼き菓子やら果物やらが山盛りに乗せられていた。礼を言って盆を受け取ろうとしたが、マリナはにこやかにケアルの差し出した手を制し、 「わたくしが、お給仕しますわ」 「……は?」 「こう見えても、慣れてますのよ。お父さまとお茶をするときはいつも、わたくしがお給仕するんです。さあ、お部屋にどうぞ」  断る口実も思いつかぬ間に、マリナは身軽な所作でケアルの前を通りすぎ、部屋の中へ入ってしまった。  小さな卓に盆を置き、そのまわりに椅子をならべるマリナに、ケアルはエリと互いに顔を見合わせた。 (どうする?) (——ったって、入っちまったもんは仕方ねぇだろうが)  目顔で話し合うエリの腹が、空腹を訴える盛大な音をあげる。己の腹を見おろしたエリは、まずは身体の欲求を満たすことに決めたらしい。立ちつくす親友を残し、さっさと部屋の中へ入っていった。  残されたケアルは仕方なく、扉を大きく開いたまま固定し廊下から室内が見えるように気を配ると、さっそく焼き菓子にかぶりついている友人のもとへ進んだのだった。  慣れていると言っただけあって、マリナの手際はよかった。薄い陶器のうつわにお茶を注ぎ、器用な手つきで果物の皮を剥《む》く。 「今夜は、水夫の皆さんもお呼びして、帰還祝いの宴《うたげ》をひらくんですって。おふたりともご存知でした?」 「へー。おっさん、ちゃんと約束まもってくれるんだな」  エリの反応に、マリナの眉がぴくりと動いた。あわててケアルがとりなすように、 「いえ、知りませんでした。ご当主には色々と気をつかっていただいて、申し訳ない」  そうでしょう、とマリナは自慢げに胸をはった。 「ご存知ないと思うけど、ふつう水夫も呼んでの宴などしないんですのよ。でもお父さまは、今回の航海は特別だから、って」 「——そうですか」  うなずいたケアルの隣でエリが「ケッ」と、吐き捨てるような声をたてた。マリナにも聞こえたのだろう、彼女はきゅっと唇をひき結び、エリを睨みつけた。  思ったよりも気の強い娘らしい。ピアズに紹介されたときは、しとやかなおとなしい娘に見えたものだが。 「おっと、悪いね。げっぷが出てさ」  睨まれたエリは涼しい顔で、わざとらしいげっぷをしてみせる。マリナはそんな彼をしばらく睨みつけたあと、ふいっと顔を背け、これまでの数倍もにこやかな笑顔をケアルに向けた。 「外に出られたんでしょう? デルマリナの印象はいかがだったかしら?」  無礼なエリにあてつけるように、いかにも親しげな声音で訊ねてくるマリナに、ケアルは苦笑した。 「——なにもかも大きくて驚きました。この邸の周辺の一区画だけで、ライス領のいちばん大きくて賑やかな町がすっぽり入ってしまいます」 「あら、そうなの? でもこのあたりは、そんな大きな建物はないのよ。大アルテの商人の邸はたいてい、大運河沿いに並んでいるもの」 「大運河……? この邸の前にある運河も、ずいぶん大きいと思いますが——」 「あれは大運河じゃないわ。大運河は、帆船だって航行できるもの。もちろん普段は、帆船が入ってくることなどないんだけど。年にいちどお祭りがあって、そのときは大運河に何隻も帆船が浮かぶのよ」 「それは、すごいな」 [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_069.jpg)入る]  素直に感心してみせるケアルに、彼女も気をよくしたらしい。ぱっと表情が明るくなり、踊るような足どりでケアルに近づいた。 「よかったらわたくし、案内してさしあげるわ。まずは、大運河に、時計台と嘆きの塔、議会広場ね。デルマリナに出て来たひとが必ず行くような場所は、絶対におさえておかなきゃ」  あとは劇場に、なんとかいう橋にと、マリナはすっかりその気で案内したい場所を次々にあげていく。 「そんな……いいです。だめですよ」  あわててケアルが遠慮してみせると、彼女はきょとんと首をかしげ「どうして?」と、ケアルの顔をのぞきこんだ。そのいかにも無邪気な子供っぽい仕草に、ケアルは軽く目をみひらく。  なるほど、とケアルは思った。大人の女性ぶってはいるが、彼女の本質はまだまだ子供なのだろう。我儘《わがまま》にみえるのは実は無邪気なだけで、気性の根本には素直な優しい心があると感じ取れる。父親であるピアズが、目の中に入れても痛くないほど可愛がり、大切に掌中の珠のごとく育てたに違いない。 「お嬢さんに、そんなことさせられません。きっとお父上もお許しになりませんよ」  にっこり微笑みながらケアルが言うと、マリナは子供じみた仕草《しぐさ》で首をふった。 「そんなことないわ。お父さまはお忙しいし、使用人に案内などさせたら絶対に気がきかないことするって、わかってるもの。それにわたくしならお友達も多いし、色々なかたをご紹介できると思うの」  最後の言葉に、ケアルははっとしてマリナを見つめた。そして、失礼と言いおいて立ちあがると、寝台の傍らに置いた大きな衣装箱を開いた。  詰めてある荷のほとんどは、父が用意させたものだ。衣服と、身の廻りの品が上のほうに。船主へ贈ることになっている、彼らが欲しがっているらしい鉱石から造った、凝った意匠《いしょう》のナイフや鏡、あるいは伝説の大鳥を模した像などが底のほうに入っている。  ケアルは衣類の間から、天鵞絨地の袋を取り出した。上着の隠しに入る程度の小さな袋だが、手に取るとずっしり重みがある。  袋を持ってマリナのところに戻ると、ケアルは中から石を数粒とりだし、小卓の上に置いた。 「まあ、これは……」  マリナが目を丸くして、石を見つめる。血のように赤い石と、深い緑の石だ。 「これを、デルマリナの貨幣に替えられるでしょうか?」  ケアルの問いに、彼女は石から目を離さず何度もうなずいた。  これは父が出航直前になって、手ずから渡してくれたものだった。おまえの好きに使いなさい、きっと役に立つだろう、と父は笑って言った。 「すごいわ。こんな深い色の宝石、初めて見たわ。ねえ、さわってもいいかしら?」  遠慮がちに訊ねられ、ケアルは笑って 「どうぞ」  と応えた。マリナは緑の石をそっと持ちあげ、手のひらに乗せた。 「わたくし、同じ宝石の指輪を持っているけど、もっと薄い色なのよ。それだって、家令のお給金の十年ぶんするお値段だったわ」  言いながら彼女は宝石を指に当て、頭上にかざしてつくづく眺めている。 「素敵だわ。こんな綺麗な色の宝石を持っているひとなんて、きっといないわ」  うっとり見つめながらため息をつく様子に、ケアルは苦笑して、 「よろしければ、それは差し上げましょうか?」  申し出ると、マリナは一瞬うれしげに笑みを浮かべ、けれど次の瞬間には「だめよ」とつぶやいてかぶりをふった。 「こんな高価な宝石、いただけないわ。いただく理由がないんですもの」 「では、デルマリナを案内していただき、これを貨幣に替えてくれる人間を紹介していただくお礼、ということでは?」  マリナは宝石とケアルを交互に見つめ、その小さな頭で色々考えているふうだった。やがて大きなため息をつき、彼女は手のひらに宝石を握りしめた。 「ありがとう。デルマリナでいちばんの宝石商を、ご紹介させていただくわ。交渉は、わたくしに任せてね。マリナ・ダイクンの名にかけて、絶対に高くふっかけてやるから」  黒い瞳をきらきら光らせ、力をこめてそう言ったマリナに、果実に齧《かじ》りついていたエリが吹き出した。 「おいおい。それが、お嬢さんが吐く台詞《せりふ》かよ」 「エリ……!」  失礼だぞ、とたしなめたものの、ケアルの感想もよく似たものだ。だが、最初のころの気取った喋りかたよりも、いまのくだけた口調のほうが、相手をするケアルもずっと気が楽ではある。  言われてマリナも頬を赤く染めたが、すぐにつんと顎をあげ、 「わたくし、親しいかたにはいつもこうですわ。お友達を相手に気取っても、嫌味なだけですもの」 「へー。ってことは、オレたちはお嬢さんの�お友達�なわけか?」  にやにや笑いながら、エリが訊ねる。 「あなたは違うわ。嫌なことばかり言うかたを、お友達になどできませんわ」 「そりゃいいや。オレもお嬢さんを友達呼ばわりなんか、できねぇからな」  気を悪くした様子もなく言い返すエリに、マリナはむっと唇を曲げた。  案外このふたりは気が合うのかもしれないな、とケアルは苦笑したのだった。    * * *  その夜、ダイクン邸にて帰還祝いの宴がひらかれた。それに先立ち、ケアルとエリはピアズから、今回の航海の共同船主だと四人の男を紹介された。 「船主といっても、雀の涙ばかりの使用料を払わせてもらっただけなんですがね」  禿げあがった頭を撫でながらそう言ったのは、毛織物を扱う貿易商である。他に、赤ら顔の険しい表情をした鍛冶《かじ》職人、かすれたドラ声で高笑いばかりする魚市場の支配人、周囲に気をつかっておどおどしているように見える造船職人がいた。四人ともピアズより年下には見えなかったが、全員が彼に対しては腰が低く、敬語をつかっている。  四人がそれぞれ、小アルテの組合長を勤める人物だということだったが、ケアルにはピアズとかれらの力関係がわかるような気がした。  その場でケアルは、父親から託された品物をピアズに贈った。品々はすぐ四人の男たちの手にまわされ、かれらは興味深げにひとつひとつを確かめていった。 「こうして加工できるものなら——」 「そうですな。思ったより、たやすくできるかもしれない」 「像をつくるより、簡単ですからな」 「いや、そういうものじゃないが……」  ぼそぼそと交わされる会話に、ケアルはさりげないふりをして耳をそばだてた。  かれらがそもそも未知なる土地に船を出したのは、あるデルマリナ船が漂流する漁師を助けあげたことがきっかけだという。その漁師が唯一持っていたのが、ケアルの故郷では島人の男ならたいていが所持する、小さなナイフだった。故郷では珍しくもないそのナイフの素材が、デルマリナの人々にとっては目新しいものであったらしい。  いったいかれらがそれを何に加工しようと考えているのか、父もわからないと言っていた。ケアルも、おそらくは海水に錆《さ》びず腐蝕《ふしょく》しないという特性を生かしたものだろう、とは考えているものの、いまだかれらの目的は想像もつかないでいる。  もっと詳しい話をしてくれないかと、思わず身を乗り出しそうになったケアルはふと、視線を感じて振り返った。  ピアズが、眼帯をしていないほうの目をうっすらと細め、こちらを見ている。視線が合うと、ピアズは目もとだけでかすかに笑った。とたんにケアルは、自分がみるみる赤面していくのを感じた。  きっとピアズは、かれらの会話にケアルが耳をそばだてているのも、そのくせ聞いていないふりを装っていたのも、すべて見ていたに違いない。そうわかって、ひどく恥ずかしくなったのだ。  ケアルが耳まで赤く染めて俯くと、ピアズは「さて」と言って全員を見回した。 「そろそろ宴の用意が整ったはずです」  ピアズの声を合図に、全員がぞろぞろと部屋を出る。  邸の構造は、ケアルが見たところ四層になっているようだった。一階が倉庫、主階が大広間、二階が住居、屋階には開廊があり、ここは家令たちの住居として使われている。また一階と主階の間には、書斎か事務所として使われている中二階が存在し、ケアルがいま四人の男たちに紹介されたのもこの部屋である。  ピアズが主階の大広間へ向かうと知ると、先ほどの貿易商が驚きの声をあげた。 「なんと、水夫どもに大広間を開放されたのですか?」  先に立つピアズは足を止め、貿易商を振り返った。 「ええ。水夫全員が集まれる部屋は、我が家にあそこしかありませんから」 「もったいないことをなさる——。ダイクン邸の大広間といえば、大アルテのどの邸にも負けぬ豪華さと、巷間《こうかん》でも噂されておりますぞ。それを水夫どもに……」  いや全くと禿《は》げ頭を振る男に、エリが肩を怒らせた。あわてて押しとどめようとしたケアルの手も間に合わず、エリが前へ一歩を踏み出す。 「そういったご了見ならば、いますぐお帰りいただこう!」  エリが怒鳴るより先に、ピアズの声が響いた。眼帯に隠れていないほうの目が険しい光を放っているのがケアルにも見てとれた。 「私は水夫たちに感謝している。辛い長い航海をよく耐えて、戻ってきてくれたと」 「いや、しかしですな——」  ピアズの剣幕にしどろもどろとなりながら、貿易商は仲間を振り返った。だが三人の男たちは、あわてて視線をそらし、知らぬふりをよそおう。仲間に裏切られた貿易商は、禿げ頭にたちまち浮かんだ汗を拭きながら、陸にあげられた魚のように口をぱくぱくと動かした。 「しっ、しかし、あやつらは……大切な船を一隻失ったのですぞ」 「一隻ですんだのは、幸運だったからではない。水夫たちの努力があったからだ」  返したピアズの声は、穏やかといっていいものだった。廊下はしんと静まりかえり、貿易商の荒い息づかいだけがひどく大きくケアルの耳に届いた。  静けさを破ったのは、エリの手を打つ音だった。 「いいなぁ、おっさん。あんたの言う通りだ、いいこと言うよ」  感心した様子で何度もうなずき、手を打ち鳴らす。そんなエリにピアズが苦笑し、 「お褒《ほ》めいただいたのかな?」 「うん。まあ、そんなもんだな」  にやっと笑ったエリは、男たちの間をぬけてピアズの前に立ち、親しげに彼の腕を取った。 「あいつらに代わって、礼を言うぜ。船を失ったのを船主に責められるんじゃねぇか、給料の後金はらってもらえねぇんじゃねぇかって、みんな心配してたんだ」 「ではきみから、心配することはないと伝えておいてほしい」 「わかった。んじゃ、行こうぜ。みんな待ってんだろ」  エリがピアズとともに歩きだすとやっと、男たちの緊張がとけた。ふたりに続いて、全員がぞろぞろと歩きはじめる。  最後尾についたケアルは、いまの一幕にエリのように素直に感心することができないでいた。確かに、ピアズの言うことはもっともその通りで、反論すべき点などなにひとつない。けれども、なにかがひっかかる。 (そうだ——だいたいなんだって、この場でわざわざ事を荒だてるような真似をしたんだろう……?)  力関係で優位に立っているとしても、ピアズも四人の男たちも同じ仲間だ。かれらの言うハイランドへ船を出した、共同船主である。先ほど貿易商は、自分たちは雀の涙ほどの出資しかしていないと言っていたが、それが事実なら、自分ひとりの力で船を出せたところを、わざとそうしなかったことになる。  それだけ前を行く四人の男たちの力が、財力ではない他のなにかが、必要だったということだろう。  必要な人間をなぜ、貶《おとし》めるような責め方をするのか。他の仲間の前で、客人の前で、恥をかかせたのはなぜか。  少なくとも、一時の感情だけであんな真似をする男ではないはずだ。  野菜売りの船頭が、薬草売りの孤児が大アルテの商人になったと、ピアズ・ダイクンの経歴を語った。ピアズは俺たちの希望なんだ、とも言っていた。だとすれば、よほどの才覚の持ち主とみていいだろう。 (そんな彼が……)  男たちのむこうに、エリと肩をならべるピアズの背中が見える。廊下を曲がり、階段をのぼりながら、ケアルはその後ろ姿をじっと見つめていた。    * * *  大広間に通された水夫たちは、その豪華さに圧倒されたのか、しばらくの間は借りてきた猫のように静かでおとなしかった。  凝った装飾のほどこされた柱、天井は高く、そこから吊された十幾つもの灯りは、大広間を隅々まで照らしだしている。給仕の家令は招かれた水夫たちよりよほど上等なお仕着せの上下をつけ、銀の盆を掲げて滑るように歩きまわる。中央の大卓には山のように料理がならべられ、水夫たちがいくらでも好きに飲めるようにと、酒の大樽まで運びこまれていた。  最初に賑《にぎ》やかにやりはじめたのは、エリが混じっている一集団だった。乾杯の声が聞こえ、どっと笑い声がおこる。するとそれにつられるかのように、あちこちで乾杯がはじまった。こうなるとあとはもう大騒ぎだ。  ケアルは水夫たちには混ざらず、壁際に立って、大いに飲み食いする水夫たちや、むこうの隅でかたまっている四人の船主たちを眺めていた。  四人の船主たちは、水夫たちと親しく楽しもうというつもりなどないようだ。水夫たちの間を歩きまわっているピアズをちらちらと横目で見ながら、仲間同士で喋り合っている。 (あれ……?)  男たちを眺めているうちに、ケアルは妙なことに気づいた。それはごく些細なことで、単なる思い過ごしかもしれないが——。  中二階の事務所にいたとき、かれらの中で主導権を握っていたのは禿げ頭の貿易商だった。いちばんよくピアズと話をし、ケアルが贈った品をピアズから最初に受け取ったのも、ケアルたちに最初に礼をしたのも彼だ。ところが今、貿易商は仲間たちから一歩退いて立っている。杯の酒を舐《な》め舐め、仲間たちのお喋りを上目づかいにうかがうだけで、会話に参加しようとしていない。  代わりに、先ほどは周囲に気をつかっておどおどしていた造船職人が、かれらの主導権を握っていた。左右に仲間を置き、彼があれこれと指さすと、ふたりの仲間が揃《そろ》ってそちらを見るといった具合だ。  ケアルの目には、貿易商と造船職人ふたりの立場が逆転したように見えた。きっかけはもちろん、先ほどの一件だろう。  それを狙って、ピアズは貿易商を責めたのだろうか? 考えながらケアルが視線を移した先では、ピアズが水夫頭に「酒は足りているか?」と笑顔で訊ねていた。 (——だとしか考えられないな)  スキピオがケアルの横に立ったのは、どこかの一団が歌をうたいはじめたときだ。 「お加減はもう、よろしいんですか?」  ケアルが訊ねると、スキピオはやつれの取れない顔に苦笑を浮かべた。 「ええまあ、すっかりとは言えませんが」  調子っぱずれな歌へ目を向け、スキピオは壁にもたれかかった。 「我々と一緒に出航した船を、こちらでご覧になりましたか?」  視線をよそに向けたままの言葉に、最初ケアルは自分に向けられた問いだとわからなかった。 「え……っ? ああ、曳航されてきたところを見ました」 「浮かんでいるのが不思議なほどの、傷みかただったでしょう?」  はい、とうなずいてみせる。 「不思議なことは、もうひとつあるんですよ。あちらの船には確か、ギリ領主からの使者が乗っていたはず——覚えていらっしゃいますね?」 「ええ。実はかれらのことが心配で、港まで出向いたんです」 「お会いになれましたか?」 「いいえ。おれたちが行ったとき、接岸している船はまだ一隻だけで——確かめる間もなく、船主らしいかたがいらっしゃって」 「黒い巻毛の優男でしたか? だったらそれは、エルバ・リーアどのですね。大アルテでも屈指《くっし》の実力者だ」 「ピアズ・ダイクンどのによろしく伝えてくれ、と言われました」  やはりそうかと思いつつケアルが言うと、スキピオは目を眇《すが》めて振り返った。 「名乗られたんですか?」 「おれが、ですか? いいえ、それこそ互いに通り過ぎただけです。言われておれも、驚きましたけど」  正確には驚いたのではなく、やられたと感じたのだ。あの男には、みごとにひっかけられた。屈指の実力者と言われるだけのことはある、と今更ながらに思う。 「そうですか。さすがに評判通りの男というべきか……」  考えこむスキピオのむこうで、歌い手が交替した。先の調子っぱずれな歌とは違い、渋い声が朗々と響く。長い航海を終えた船乗りが、待っていてくれているはずの恋人のもとへ急ぐ、という歌らしい。その切ない節回しを、まわりの水夫たちが静かに聞いている。ケアルもついつい耳を傾けた。  歌が終わると、拍手と歓声がわきおこった。思わず一緒に拍手したケアルは、横にいるスキピオを思い出し、あわてて「失礼しました」と謝った。 「いえ、私も聞き惚れましたから」  スキピオは苦笑してそう言うと、近くに来た家令を呼び、なにごとか囁いて、その手に銅貨を握らせた。家令は先ほどの歌い手のところに行くと、スキピオから握らされた銅貨を渡した。  歌い手が船団長に向け、芝居じみた仕草で頭をさげる。スキピオは軽く手を振ってそれに応えると、ケアルへ向き直った。 「私も船団が曳航されて入港した午後に、港へ行ったんですよ」 「ああ、ピアズどのから聞きました。おれたちと行き違いになったみたいで——」  そうですね、と気のない返事をしてスキピオは周囲を見回し、声をひそめた。 「入港した五隻の船、そのどれにも、ギリ領の使者は乗っていませんでした」  えっ? とケアルは目をみひらいた。 「そんなこと、まさか……」 「懇意《こんい》にしている水夫を使って調べさせましたので、確かな話です。お客さんが乗っているらしいと聞いたけれど、と言ったら、大慌てで否定したらしいですよ。客人など乗っていない、そんな法螺《ほら》話をふれまわった奴はいったいどいつだ、とね」 「——船主はそれを……?」  知っているのだろうか? ギリ領からの使者が乗っていたことを。 「さあ、どうでしょう。水夫たちの様子を聞く限りでは、隠しているんじゃないかと思いますがね」 「どうして……隠したりなんか」 「船主が恐いんでしょう。船をあれほど傷めたうえに、使者まで死なせてしまったのではね。言い訳もできませんよ」 「死……?」  ぎょっとしてスキピオを見直す。 「そう考えるのが順当でしょう」  さらりとスキピオが答えた。  大広間の中央では、水夫たちが互いに肩を組み、声を合わせて歌をうたいはじめた。今度は勇ましい歌だ。荒波を越え、風を受けて船が進む様子を歌う。肩を組む水夫たちの中に、エリの姿があった。 「彼もすっかり、水夫たちの間に溶け込んでしまいましたね」 「ええ、そうですね」  うわの空で、ケアルはうなずいた。 「やはり、父親の血でしょう。彼にはデルマリナの船乗りの血が受け継がれているんですよ、きっと」  そういえば、とスキピオは言葉を継いだ。 「ピアズどのが、彼の父親を知る者を探させてくれています。あの御方の情報網は、たいしたものだ。たぶん、すぐ見つかりますよ——おっと、噂をすればだ」  水夫たちの間をまわっていたピアズが、ゆったりとこちらへ足を運んで来た。 「話がはずんでいるようですね?」  にこやかな声とともに、ピアズはケアルとスキピオに半身を向けて立った。 「水夫たちもようやく、気分良く楽しみはじめたようだ。——酒は足りていますか?」  問われてケアルは杯を見おろし、うなずいた。 「スキピオどの。水夫たちへの後金を用意させましたので、配ってやってください」  ピアズがしめしたほうを見れば、家令がふたりがかりで木箱を運び入れてきたところだった。わかりましたとうなずき、スキピオが壁際を離れていく。  ふたりきりになって、ケアルはそっとピアズの横顔を窺った。 「——なにか?」  眼帯をしている側に立つケアルは、ピアズに気づかれたことに驚いて、軽く目をみひらく。ああ、とピアズは苦笑した。 「こちら側が見えないぶん、気配には敏感になってしまっているんですよ」 「——失礼ですが、それは事故で?」 「いや、眼病です。市場で薬草売りをしていたころ患いましてね、医師にかかる金もなかったので放っておいたら、眼がつぶれてしまいました」  ピアズはなにげなく語ったが、ケアルは彼のたどった経歴の凄じさに思わず言葉を失った。  大広間のむこう隅では、スキピオが水夫たちの名をひとりひとり呼びあげ、報酬の後金を配りはじめている。それまで騒いでいた水夫たちも静まりかえり、おとなしく自分の名が呼ばれるのを待っている。ピアズはそんなかれらを、微笑みながら眺めていた。  四人の船主たちはと見れば、ピアズの満足げな笑顔とは逆に、ひどく気鬱《きうつ》そうな表情をして、給金をもらう水夫たちを見つめている。 「——かれらは、水夫たちに後金を支払うのに反対しましてね」  ケアルの視線に気づいたピアズが、軽く肩をすくめた。 「船を一隻失ったのだから、後金を支払う必要などない、と」 「そんなこと……」 「船の破損が激しい場合など、船主が後金の支払いを渋る例は多いんです。特に今回は船が帰ってきても、物資を運んできたわけでもなく、それによって利益を得ることはできませんからね。できるだけ切り詰めたい気持ちは、私も同じなんですが——」  心情的にね、とピアズは苦笑する。 「先ほどお怒りになったのも、心情的なものが原因なんですか?」  ケアルの問いに、ピアズの表情から一瞬、笑みが消えかけた。だがすぐ微笑むと、 「ええ、そうです。おとなげないことをしました、お恥ずかしい限りです」  言いながら彼は、こちらに視線を向けた四人の男たちに、軽く目礼した。 「そろそろ、かれらの御機嫌をとりに行かねば。すねられても困りますしね」  では楽しんでください、と言い置いてピアズはケアルに背を向けた。  四人の男たちと笑顔で会話するピアズを見ながらケアルは、先ほどの結論に確信をもった。大広間の中央では、給金をもらった水夫たちがふたたび、賑やかに飲み食いをはじめている。 「おい、ケアル! んな隅っこにいねぇで、こっち来いよ!」  エリが水夫たちの間から呼びかけてきた。苦笑してうなずき、壁際を離れる。  離れぎわ、さりげなく見やったピアズとわずかに視線が交わった。 「ケアル、こいつがさぁ、すげぇおかしいんでやんの」  ふたたび呼ばれて、ケアルはエリたちのほうへ移動した。  ケアルが水夫たちの中にいる間、ピアズがこちらを見ることはもうなかった。 [#改ページ]    第六章 人民評議会      1 「なんだか、疲れてる顔してるわねぇ」  小舟の赤い革ばり席に腰を落ち着けたマリナが、ケアルの顔を見あげて言った。 「わたくしと外出するのがお嫌なら、今日はとりやめてもいいのよ?」 「いえ、そういうわけじゃないんですが——エリのやつ、遅いな」  一緒に部屋を出たはずのエリが、なかなかやって来ない。お嬢さまなんかと市街見物など御免だと渋っていたのを、どうにか説得して承知させたのだ。 「ちょっと、見てきます」  マリナに断って、邸の中へもどろうとしたケアルに、上から声が降ってきた。 「ケアル、オレやっぱ行かねぇから」  見あげれば、邸の主階にある露台からエリが身を乗り出し、手を振っている。 「そんな——昨夜は行くって言ったじゃないか!」 「気が変わったんだよ」  露台の石づくりの手すりにもたれかかり、エリはぐっと背のびをする。 「それにさ、今日はおっさんが留守してんだろ。ってことは、今夜は久々にレセプションたらいう集まりはねぇんだろ?」 「——そう聞いているけど」  デルマリナへ到着してから、そろそろ一ヶ月ほど経とうとしている。初日に黙ってふたりで邸をぬけだしたのがきいてか、以来、部屋を出るたびに家令がついてまわり、邸内さえ自由に動けない日々が続いていた。もしマリナが、そんなのかわいそうだわと言って家令を追い払い、たまに外へと連れ出してくれなかったら、いいかげん息が詰まって爆発していたに違いない。そのうえここ最近は毎晩といっていいほど、宴が開かれていた。招待客は日によって異なり、昨夜は小アルテに属する港湾関係者がダイクン邸に集まった。レセプションのたびにケアルは人々の前で挨拶し、あれこれと質問に答えてほしいと、ピアズから頼まれている。 「まるっきりオレら、見世物じゃねぇか」  レセプションのあった初日にそう言ったのはエリだ。ケアルもその通りだと感じたが、続いての宴に出てほしいと頼まれたとき、断ることはできなかった。世話になっている身で、邸の主に懇願《こんがん》されては、わかりましたと笑顔でこたえるしかない。また、ライス家の名代であるという自分の立場、父からデルマリナの現状を見て来るように命じられたことからも、多くの人々が集まる場はケアルにとって情報収集のためには有益な機会であるといえた。  己の好悪だけで、行動することはできない立場にいるのだ。 「オレさ、ちょうどいいから水夫仲間んとこ行ってくる。遊びに来いよって、言われてんだ」  行ってもいいだろ? という目で見おろされ、ケアルは軽くため息をついた。  すでにマリナの紹介で宝石商と交渉し、石を何粒か金に替えている。その金のきっちり半分は、エリに渡してあった。たぶんひとりで行動しても、金銭面で困ることはないだろう。 「わかったよ。そのかわり、夕方までには帰って来いよ」  ケアルが言ってやると、エリは任せろと胸をたたいてみせた。 「おっさんが帰ってくるまでにゃ、戻ってくっからさ」  あら、と後ろでマリナの声がした。 「お父さまならたぶん、夜中まで帰って来ないと思うわ。人民評議会に出ていらっしゃるから」 「人民評議会……?」  首をかしげたケアルの頭上では、マリナの声を聞きつけたエリが、やったぜと手を打ち鳴らしている。 「んじゃ、ゆっくりできるな。ケアル、おまえもはねのばしてこいよ」 「エリ、だめだよ! それでも絶対、夕方までには帰って来いよ!」  はいはいわかりました、とエリはにやにやしながら露台を離れた。 「ほんとに、絶対だよ!」  ケアルの声が届いたかどうかは定かではない。もうひとつため息をつき、舟にもどったケアルは、マリナの斜め前に向かいあう形で座った。 「出してちょうだい」  扇を振って、マリナがうしろの船頭に合図する。舟はゆっくりと、ダイクン邸の舟着き場から離れていった。  舟がひなたに出ると、マリナは縁飾りのたくさんついた白い傘を開いた。 「わたくし、余計なこと言ったかしら?」  傘の下から話しかけられ、ケアルは小さく首をふった。 「いえ。それより、人民評議会というのは何なんですか?」 「まあ、そんなことも知らないの?」  目を丸くされ、すみませんと謝る。 「仕方ないわね、あなたデルマリナの人じゃないんですもの。いいわ、教えてあげる」  マリナは得意げに身を乗り出した。 「デルマリナの色々なことを決める、議会のことよ」  ああ、とケアルはうなずいた。レセプションで人々が「議会」について話すのを、何度か耳にしている。次の議会が楽しみだとか、こんどの議会では任せておいてくださいとピアズに胸をたたいてみせる客もいた。 「正式には人民評議会と言うんですね。でも、色々なことを決めるというのは……?」 「法律とか、新しい運河をどこに造ろうかとか、港の設備を補修しましょうとか。デルマリナの路地のあちこちにある水汲み場、あれを造ることにしたのも、議会が決めたのだそうよ。もちろん、わたくしが生まれるずっと前のことだけど」 「どんなふうにして決めるんですか?」 「そりゃあ、話し合ってに決まってるじゃないの」 「誰が話し合うんですか?」 「大アルテと、小アルテに所属してる人たちよ。お父さまは、全部で千人ぐらいいるっておっしゃってたわ」  マリナの言葉にケアルは、きょとんと目をみひらいた。数字としては認識できるが、千という人数がどれほどのものか、すぐには想像できない。  ちなみにライス領には、約一万の領民が暮らしている。だが、どんな大きな島でも、千人を擁する集落はない。せいぜい百から二百人、といったところだ。  とにかく多くの人数だ、と漠然と感じつつケアルは息をのみこんだ。 「そ……そんなにたくさんの人が話し合って、決めるんですか?」 「あら、たくさんじゃないわよ。デルマリナには、七万もの人間がいるの。なのに話し合いに参加できるのは、たったの千人よ。自分たちが住んでるデルマリナのことを決める話し合いなのに——ってこれ、お父さまがおっしゃってたことなんだけど」  愛らしく肩をすくめてみせるマリナを見ながら、ケアルは幾度も瞬いた。  たったの千人、と彼女は言う。七万の人間に対して、たったの千人と。もちろん、七万いる市民のひとりとして暮らす彼女と、一万の領民の間に生きるケアルとでは、立脚点からして違っているだろう。  それならば、とケアルは思う。デルマリナで七万の市民に対して千人ならば、ライス領なら一万の領民に対して百五十人弱の比率となる。自分は、たった百五十人しか話し合いに参加できないのだ、と言えるだろうか。 (いや——言える言えないの前に、話し合うことすら考えられないな……)  故郷では、領内を治めるのは領主ただひとり。助言する者はいても、すべての決定権は領主にある。ケアルが知る限り、もう何百年もそうしてライス領内は統治されてきた。他の方法があるなど、今の今まで考えもしなかったというのが実際のところだ。 「でもね——少し前までお父さまは、小アルテだったでしょ。小アルテだと、議会にいても全然、意見とか言わせてもらえないんですって。大アルテは三百人、小アルテは七百人と少しいて、断然小アルテのほうが人数が多いのに。それから考えたら、七万人に対して千人じゃない、たったの三百人ぽっちだってお父さまはおっしゃるの」 「そうですか……」  なかば呆然と、相槌をうつ。 「これもお父さまがおっしゃったことだけど、大アルテの方々は小アルテのことなど何も考えていないんですって。自分たちだけが有利になるような法律ばかりつくって、だから小アルテの人たちが大アルテに対抗しようと思っても、できないようになっているんですって」 「けれど——ピアズさんは、小アルテから大アルテになられたんですよね?」 「ええ、そうよ。だから、お父さまは偉いのよ。凄いってみんな言ってるわ」  誇らしげなマリナの話は、議会から父親の自慢へと移った。 「小アルテの人が大アルテになったのは、五十年ぶりなんですって。お父さまで三人目よ。お父さまは大アルテになっても、小アルテの皆さんと行き来があるし、以前お友達だった方とは今でもお友達なの。ここまでなれたのはお友達のおかげだっておっしゃって、わたくしにもお友達は大切になさい、って言ってくださるわ」  そういえば、とマリナはケアルの顔をのぞきこんだ。 「あなたとあのひとも、お友達なんでしょう?」  あのひとと言うときマリナは、かすかに眉を寄せた。 「エリ・タトルのことですか?」  苦笑して訊ねたケアルに、彼女がうなずく。 「——おれにとっては生まれて初めてできた友人で、親友です」 「ということは、ずいぶん幼いころからのお友達なのね?」 「幼いとはいえないでしょうね」  ケアルは小さく首をかしげ、ひっそりと笑った。 「エリと初めて会ったのは、十四歳のときでしたから。おれが翼に乗っていて落ちたのを、あいつが助けてくれたんです」  一瞬マリナはかすかに眉を寄せ、なにか言いたげな目を向けた。だがすぐににっこりと笑みを浮かべて、 「——翼って、あの、倉庫に置いてある大きな包みのこと?」  そうです、とケアルがうなずくと、マリナは身を乗り出した。 「お父さまが、ハイランドでは人間が空を飛ぶんだっておっしゃったけど——それ、本当なの?」 「ええ。領民全員がというわけではありませんが、翼を操れる者は空を飛びます。デルマリナにあるような船がないので、翼がいちばんの交通手段なのです」 「あなたも、飛ぶの?」  目を輝かせて、マリナが訊く。 「はい」 「鳥みたいに?」  それはどうでしょうか、とケアルは苦笑した。鳥のように、翼を自分の手足と感じられるようになれば一人前だ。その域まで己の技術が達しているかどうか、ケアルにはまだ自信がない。  ああ、そういえば——もう何ヶ月、飛んでいないだろう? 故郷にいたころは三日、翼に触れないでいるだけで、身体が飛ぶことを恋しがって辛いぐらいだった。  見あげたデルマリナの空は、故郷のそれとは違う。高い建物群が空の半ばまでを占め、ケアルからは空の一部が見えるだけだ。  ふいに——恋しい、と発作のように感じた。空が恋しい。風をきって飛ぶ感覚が恋しい。どこまでも見渡せる視界が恋しい。 「わたくし、見てみたいわ」  空を見あげるケアルの斜め前で、傘を傾け同じように空を見あげながら、マリナがつぶやいた。 「あなたが空を飛ぶところを。わたくし、見てみたいわ……」    * * *  マリナが言った通り、ピアズは夜になっても帰って来なかった。そしてケアルが予想した通り、エリもまた帰って来ない。  仕方なくマリナとふたりで夕食をすませ、部屋に引き揚げたケアルは、落ち着くこともできずにエリの帰りを待った。  デルマリナの夜は賑やかだ。日が暮れると静まりかえる故郷とは違い、あたりに夕闇がおちると、昼間とはちがった賑わいがあらたに始まる。  運河には灯りを掲げた小舟が、着飾った人々を乗せて行き交う。どこかの邸では、多くの人を招いたレセプションが始まり、運河に邸の窓々の明かりが揺らめいて映る。街のそこここにある酒場からは、笑い声や歌声がもれ出て、外に出た酔っぱらいが街角で喧嘩を始める。  ケアルは窓から、明かりの揺れる運河を見おろし、小舟が近づくたびにエリが、あるいはピアズが乗っているのではないかと目をこらした。だが夜半を過ぎても、街の賑わいがそろそろ幕を閉じるころになっても、邸の舟着き場に小舟が横付けされることはなかった。  待つことに疲れたケアルが、寝台に座り居眠りを始めて、どれほど時間が経ったころなのか。扉がそっと閉まる音に、ふっと目をさました。  あたりは暗く、運河に映る明かりもほとんど消えてしまっている。ケアルは寝台から立ちあがり、そろそろと部屋を出た。  隣のエリの部屋の扉を、そっと叩く。返事はなかったが、人の動く気配があった。 「——エリ? おれだ」  声をかけるとふたたび動く気配がし、しばらくして扉が少しだけ開いた。  姿を見せたエリに、遅かったじゃないかと文句を言おうとしてケアルは、部屋の中に人がいることに気づいた。 「エリ、おまえ……」 「しっ!」  唇の前に指を立てたエリが、廊下の左右をうかがってから、ケアルの腕をつかみ部屋の中へ引きずりこんだ。  室内は暗く、かろうじて調度品や寝台の輪郭が見分けられるだけだった。だが、荒い息づかいがはっきり耳に届き、寝台のむこう側に人がいるのはわかる。 「大丈夫、オレの親友だ」  扉を閉めたエリが、誰かに向かって声をかけた。ほっと息をつく気配がする。  部屋の中ほどへもどったエリが灯りを点け、ほんのり色づいた寝台のむこうから、若い男がおずおずと出てきた。二十二、三といったところか。粗末なシャツはあちこちが破れ、目のまわりと頬には殴られたような青痣をつくっている。 「こいつは、ケアル・ライスってんだ。あんたも知ってるだろ」  エリの言葉に、男は小さくうなずいた。 「こっちは、ボッズ。例の五隻の船ん中の一隻に乗ってた水夫だ」  紹介されて、ケアルは大きく目をみひらいた。 「酒場でオレが、みんなに酒おごってんの見てさ。たぶん、懐《ふところ》があったかいんだと思ったんだろうな。オレがひとりになったとこを、襲ってきやがったんだ」  男は申し訳なさげに肩をすぼめている。 「みんなが駆けつけてくれて、なにしやがるって殴り倒したんだけどさ」  なるほどこの痣はそのときのものか、とケアルは男の顔を見直した。 「けど——五隻の船主は、充分すぎるほど水夫たちに給金を支払った、と聞いたが?」  スキピオから、五隻の船にギリ領主の使者は乗っていなかったらしいと聞いて、ピアズにも確認をとってみた。だがピアズは笑って、五隻の船の船主たちは客人の存在を世間に知られたくないんですよ、と答えたのだ。 『あの船団の水夫たちに、かれらが支払った賃金は、通常の三倍近くだったと聞きます。荷を運んだわけでもない船に、商人がそんな出費をするはずがありません。言ってみれば口止め料ですね、客人を乗せていたことをよそで喋らないためのね』  ピアズの言葉にケアルは、なるほどと思った。だが同時に、かれらはなぜ客人の存在を世間に知られたくないと思ったのか、とケアルは疑問に感じた。言ってみればかれらは、ピアズ・ダイクンと同じ立場にある。だがピアズはレセプションを開き、ケアルを友人や知人たちに紹介しているのだ。 「なにが、充分なもんかよ……っ」  男が俯いたまま、低い声でつぶやいた。えっ? とケアルは男の顔をのぞきむ。 「それは——きみにとっては充分じゃないかもしれないが、通常の三倍の賃金といったら高給と考えるのがふつうじゃないのか?」  少し腹立たしい気分で、ケアルは言った。給金は博打《ばくち》か女かで使い果たし、その挙げ句に追剥《おいはぎ》のまねごとをしでかしたのだろう、としか考えられない。それを給金が少なかったから、などとは言い訳にすらならないではないか。 「金なんか支払っちゃくれなかったんだ」  吐き捨てるような男の言葉に、ケアルは軽く目をみひらいた。 「使いものにならねぇほど船が壊れたから、水夫に支払う金はない、って言われたんだとよ」  エリが横から説明する。 「そんなこと……」 「なんかよくわかんねぇけど、払わなくていい、って法律があるんだと」 「だって、ピアズさんは船を一隻失ったのにちゃんと——」 「んなことは、珍しいそうだぜ。オレも初めて聞いたけどさ」  ふとケアルは、昼間マリナから聞いた話を思い出した。  大アルテのひとたちは自分たちに有利な法律ばかりつくってるんですって、と彼女は言った。それもたぶん、そういった法律のひとつなのだろう。 「でもまあ、それはそれで腹立つことだけど、問題はこの先なんだ。ほら、おまえさっきオレに話したこと、ケアルにも話せよ」  エリが男の背中をたたいて促した。男はおずおずとケアルを見あげ、しばらくためらっているふうだった。だがやがて顔をあげると、震える手を胸の前で揉《も》みしぼり、 「俺……俺、死刑になるかもしれないんです——」  いきなりの言葉に、ケアルはぎょっとして男を見つめなおした。 「なんで……そんな、盗みぐらいで……」  じゃねぇよ、とエリが首を振る。  ふたたび話せよと促され、男は自分の膝頭を見つめて口を開いた。 「——船に乗ってたお客さんがひとり、雹に当たって死んじまって。そしたら他のお客さんたちが、騒ぎはじめたんです。俺ら水夫のせいだとか言って。デルマリナに着いたら偉いひとに訴えて、俺らを始末してやる、って言われて……。んなことされたら、ただでさえ船がぼろぼろになってんのに、こりゃ絶対、給金の支払いしてもらえねぇんじゃないかって、誰かが言い出して——」  だから、だから、と言いながら男は太股をつかみしめた。 「お客さんたち全員いなくなれば、船主に訴えられることもねぇし、なかったことにできるんじゃねぇかって——そういう話になったんです」 「いなくなれば……?」 「夜中に、お客さんが寝てるとこを……みんなで運んで、海へ——」 「殺したのかっ?」  ケアルは叫ぶと、男に飛びかかった。衿首をつかみ、力をこめて持ちあげる。 「かれらを全員、殺したのかっ!」  男の首を絞めあげながら、ケアルはぐいぐいと揺すぶった。苦しげに口を開いた男は、喉を痙攣《けいれん》させて身をよじる。 「ケアル、やめろ!」  割って入ったエリが、ケアルを男からひきはがした。解放された男はへたへたとその場にしゃがみこみ、絞めあげられた首をさすっている。 「なんで止めるっ?」 「こいつを殺す気かよ」  即座に返され、ケアルは信じられないとばかりにエリを睨んだ。 「罪もないかれらを、こいつらは殺したんだぞ……!」  男を指さし糾弾するケアルを、エリはかすかに眉根を寄せて見返し、なにかを決意するように息をひとつのみこんで、 「——仕方なかったんだろうさ」  エリが言い放った言葉の意味がすぐには理解できず、ケアルはぽかんとして親友の顔を見返した。 「……いま、なんて……?」  訊ねたケアルの視線の先で、エリはすうっと目をそらす。 「仕方なかったんだろうさ、って言ったんだよ」  かあっと頭に血がのぼった。ギリ領の使者を殺したと告白した水夫よりも、それを仕方なかったと言い放ち、目をそらしたエリに腹が立った。 「仕方ないで済むことか! 他にやりようはいくらでもあったはずだ」 「んなもん、後になって言えることだろ」  へ理屈をこねて自分は悪くないと言い張る子供のような、エリの言い方だった。 「なんでエリは、こいつらを庇《かば》うんだ!」 「庇っちゃいねぇよ。たださ、おまえの親父さんだって、似たようなことしたじゃん。ウルバの領主が莫迦なことやらかしたとき、領主の代わりに、罪もない島人の首をはねて持ってっただろ」  なぜ今頃そんな話をもちだすのか。ケアルは苛々として言い返した。 「そんな話は関係ないだろう! いま話しているのは、別のことだ! あれとこれとは話が違うだろうがっ!」  するとエリは、ため息でもつきたそうな顔をして、かすかに笑った。 「——そうか。でもな、おまえにとっちゃ話が違うことかもしんねぇけど、オレにとっちゃ同じ話なんだよ。オレは島人だからさ」  はっと目をみひらき、ケアルは親友の顔を見直した。友人となってから五年、その間、彼が己を島人だからと自分とケアルを区別するような言い方をしたのは、今が初めてだった。 「あんときケアルは、怒ってたよな。でも、今こいつにしたみたいに、親父さんを責めたりしなかった。それってつまり、仕方ねぇことだって思ったんだろ。今オレが思ってるみたいにさ」  ひどく疲れた顔をして喋るエリに、ケアルはますます腹が立った。  なんでそんなことを今、持ち出してくるんだ。あれとこれと、どんな関係があるんだ。ケアルには、さっぱり見当すらつかない。  だいたい、父が罪もない島人の首をはねて差し出したという話をケアルがしたとき、エリはただ仕方ないとしか言わなかったではないか。憤慨《ふんがい》するケアルに、同意するそぶりもしめしてくれなかった。 (それを、いまさら何だよ——)  しかしエリはケアルの腹立ちには気づかぬ様子で、小さく息をつき、床に直接座りこんだ。 「こいつらさ、みんなでずっと口|噤《つぐ》んでたんだよ。船にお客さんなんか乗ってなかった、って。けど、どっかから船主にばれちまってさ。あの五隻に乗ってた水夫たち、いっぱいとっつかまったんだと」  こいつも、とエリは横にしゃがみこむ男へ目をやる。 「追われてんだよ。つかまったら、殺されるかもしんねぇ。でも、逃げるにしても金もねぇしさ——で、オレの懐を狙ったんだよ」  男が両手を床につけ、そうです、そうですと御辞儀をするように何度もうなずく。 「つまり……エリは、あのとき自分が領主の行為を仕方ないと見逃したように、おれにもこいつを見逃せと言うのか?」  腹立ちを抑えた低い声で、ケアルは親友に問うた。はっとして顔をあげたエリの目は、いまにも泣きそうに見えた。  ふたりの視線が交わる。喧嘩腰になっている己を自覚したが、いまさらあとには退けなかった。おれは悪くない、おれには退く理由なんてない、とケアルは思った。  やがてエリは泣きそうな目をケアルに向けたまま、ぎこちなく笑った。 「——ああ、そうだ」 「わかった。エリが言うなら、今夜は見逃す。でも、これっきりだ」  目尻が切れそうなほど、ケアルはエリを見つめてそう言い放つ。  たぶんおまえは、客人を殺した水夫たちの気持ちがわかるんだろう。それと同じぐらいに、おれには殺されたギリ領の使者たちの気持ちがわかる。見たこともない巨大な船に乗って、果たせるものかどうかもわからない使命を背負い、見知らぬ地へ行かねばならなかったかれら。きっと仲間だけが、気持ちの支えだったのだろう。  おれだって、もしあの雹でおまえが死んでいたら、かれらと同じことを言い出さなかったとは限らない。もしおれが仕方ないなんて言ってしまったら、死んだかれらがあまりにも憐れだ。おまえが仕方ないと言うならば、おれはかれらのためにも憤らなければ。許せないと言い続けなければ——他の誰が、この異郷の地で、死んだかれらを思う者がいるというのか。 「今夜ここで見たことは、誰にも言わない。おれは何も見なかったし、聞かなかったことにする」  それだけ言い放ち、ケアルは踵をかえした。室内を横切り、扉の前で立ちどまると、親友を振り返る。おれの気持ちは、エリならわかってくれるはずだ、という最後の望みを賭けて。 「——逃がすなら、早朝がいい。出航間際の船に乗り込ませるのが、いちばんだろう」  だが返ってきたのは、期待した言葉ではなかった。 「オレ……、ピアズのおっさんに頼もうかと思ってたんだけど——」  そのとたん、かっと頭に血がのぼった。 「好きにすればいい」  言い放ち、部屋を出たケアルは、もう聞く耳は持たないとばかりに扉を閉めた。  それでもしばらくは扉を睨んでいたケアルだったが、やがて肩を落として自分の部屋に戻った。 (エリ……、なんで呼びとめてくれさえもしなかったんだ……!)  初めて会ってから、五年。些細《ささい》な子供らしい喧嘩なら、何度もしたことがある。だがその都度、エリが拗《す》ねているときはケアルから、ケアルが意地をはっているときはエリのほうから、まるで示し合わせたかのようにすぐ謝ったものだ。喧嘩をしたまま別れるなどということは、一度たりとしてなかった。和解もせず別れてひとりになったときに、もしエリがもう親友であることをやめようと思っているとしたら、と考えるのが嫌だった——というより怖かったのだ。おそらくエリも、同じ気持ちだったに違いない。  けれど今は、嫌だとか怖いとか思うよりも悔しさのほうが勝っていた。  なぜ、わかってくれないのか。ともに船に乗り込み、ふたりで故郷を出てきたおまえになら、わかるはずだろうに。 (どうしてだよ……!)      2  議会は十日に一度、あらかじめ定められた日に開会される。  大会議場は大運河に面し、前には整備された石畳敷きの広場を擁《よう》していた。この広場は年に一度の祭りのときには数百もの物売りの屋台がならび、一万人からの市民が集《つど》う、デルマリナ最大の規模をもつ。  通常、議会は午後から始まり、議員たちが議場へやって来るのは昼過ぎ、遅れて夕方になって来る者もいる。だがこの日、午前の早い時間から、議場前の広場は揃いの黒いガウン姿の議員が行き交っていた。  かれらのほとんどは議場に入る前に、票を買おうとしている議員たちだった。本日は、年に一度改変される「総務会」の新役員を決める投票日なのである。  ピアズ・ダイクンが議場に赴《おもむ》いたのは、いつもと同じ昼を過ぎてからだった。  彼には今になってあわてて票を買う必要などなかったのだ。集票活動はもう一ヶ月も前に終わり、その票数からして彼の「総務会」入りは確実なものとなっていた。  明日になって新しい「総務会」役員の顔ぶれが全市に向け告知されれば、全市民が驚くに違いない。大アルテとなって間もないあのピアズ・ダイクンが、裸足で薬草売りをする孤児でしかなかった彼が、評議会の最高執行機関である「総務会」に名を連ねるようになったのだ、と。  コの字型の大会議場は、議会の承認をうけ十年ほど前に新造された豪華な建物である。主階には議員たちの使う、投票の間、大評議会の間、総務会の間があり、二階は議会で雇われた職員たちの職場となっている。  大評議会の間は大運河に面し、千人の議員が着席して議会に臨める規模の部屋だ。席は議員ごと厳密に定められており、大アルテの議員と小アルテの議員が隣合うことは絶対にない。また大アルテ内でも、各議員の財力や議会への貢献度により、席順がはっきりと決められていた。  ピアズの席は現在、大アルテたちのほぼ中ほどにある。彼が小アルテから大アルテになったときは、大アルテの最も末席だった。今日の投票が終われば、青い馬の壁画のすぐ前にある上席へ移ることになるだろう。おそらく彼は、末席から上席へ移動した早さの記録を塗り換えるに違いない。  議員たちが着席を終えてしばらくすると議長が入場し、議長席の小さな鐘が鳴らされた。これが開会の合図である。ちなみに議長は、総務会の役員が交替で勤めることとなっている。  本日は議題に移る前に、まずは投票だった。  総務会役員を決める投票には、白く塗られた木札が大アルテの議員には二枚、小アルテの議員たちには一枚ずつ配られる。木札にこれと思う大アルテ議員の名を書き込み、議会の職員がふたりがかりで担ぐ巨大な木箱に落とし込むのだ。総務会の役員に選出されるのは大アルテの議員のみと限られ、百の票が必要とされる最低線だった。  集められた票は二階へと運びあげられ、総務会役員の立ち会いのもと、開票作業が行なわれる。この数十年、父から息子への世代交替はあったが、それ以外で総務会役員の顔ぶれが変わることはなかった。  投票が終わったのは、夕方だった。木箱が運びあげられると議長席の鐘が鳴らされ、いったん議会は閉会となる。  ふたたび開会が合図されるまで、議員たちは議場を出るもよし、議場内にとどまるもよしとされている。ふだんはほとんどの議員が議場を出て、近くの料理屋で腹ごしらえをしたり、いったん自宅へ戻ったりするのだが、今日は大半の議員が議場を出ようとしなかった。  なにかが起こるという予感で、議場内は一種異様な興奮に包まれている。そしてその中心に、ピアズ・ダイクンがいた。  衆目の中、ピアズが席を立つと、大アルテの議員たちが一斉に道をあけた。ピアズが議場内を移動するにしたがって、人の波がゆっくりと動く。  議員たちのために、主階には他に控えの間が複数用意されていた。大アルテ議員には、大評議会の間に近くに三室。小アルテ議員には、その奥、階段にほど近い場所に二室。  大評議会の間を出たピアズは、迷わず奥の控えの間へと足を向けた。そのあとに従うように、何十人もの議員たちがピアズに続く。ほとんどが小アルテ議員だったが、何人か大アルテの議員も混じっていた。たちまち階段横の控え室は、黒いガウン姿の議員たちでいっぱいとなり、扉も閉められなくなった。  ピアズが室内に進むと、先にいた人々が椅子を空け、こちらに座ってくださいと促す。窓際の椅子に座れば、だれかがお茶を持ってきてピアズに差し出した。  礼を言ってお茶を受け取ったピアズは、彫像のように立ったまま彼のまわりを取り囲む人々を見回し、苦笑した。 「みなさんもご一緒に、いかがです?」  薄い磁器のカップを軽く掲げてピアズが言うと、どっと人垣が動いた。 「椅子っ! 椅子を持って来るんだ」 「足りない? だったら、他の部屋から持って来ればいい」 「二階に行けば、ごろごろ転がってるんじゃないか?」 「扉を全部開けろよ。そうすりゃ、もっと入るぞ」  たちまちピアズを中心に放射線を描くように、椅子がならべられた。 「お茶は? あとどれぐらい残ってる?」 「足りないなら、ちょいと二階へ行って職員に用意させりゃいいさ」 「みんなが熱いお茶を持って歩いたら、危ないぞ。むこうから順にまわすんだ」  お茶が配られ、座れる者はカップを膝に乗せ、座れなかった者はカップを手に持ち、それぞれがそれぞれの場所に落ち着いた。 「ピアズさん、そろそろ聞かせていただけないでしょうか?」  口火をきったのは、小アルテの若い議員だった。確か、一昨年に父親から家督《かとく》を譲られた指物師《さしものし》である。 「——何の話ですか?」  お茶がこぼれてしまいそうなほど身を乗り出す若者に、ピアズはとぼけてみせた。 「そんな意地悪なこと、言わないでくださいよ。俺たちみんな、ピアズさんの話が聞きたくて、うずうずしてるんです」  そうだよな、と若者は周囲に同意をもとめた。若者の周囲にいる者たちが一斉にうなずく。 「ピアズさんの船が長い航海を終えて帰ってきたのも、ピアズさんの邸に遠くからのお客さまが滞在してるのも、もうデルマリナ中の人間が知っているんですよ」 「でも、いったい船がどこへ行ったのか、噂以上のことはまだ誰も知らないんです」 「ミセコルディア岬をまわって、その先まで行ったというのは本当なんですか?」 「まさか。あの岬は、熟練の水夫たちでも近づこうとはしない難所だぞ。俺が聞いた話では、ずっとまっすぐ西へ向かって航海したら、海の果てに何千年も続いている王国があったそうだが——」 「どこで聞いた話だ、それは」  あれやこれやと言い合う話を苦笑まじりに聞きながら、ピアズはカップをそばの小卓に置いた。磁器がかたんっと小さな音をたてると、それを合図にしたかのように、全員が口を噤《つぐ》んでピアズを見つめた。 「あまり詳しい話はできませんが」  そう前置きし、ピアズは人々を見回す。 「船が行ったのは、ミセコルディア岬のむこうです」  やっぱりそうかとうなずく顔が半数、まさかと疑わしそうな顔が半数。前者は、船乗りたちの間でほとんど伝説ともなっている『ミセコルディア岬のむこうには幻の王国がある』という話を信じている人々、後者はそんな伝説など莫迦らしいと笑い飛ばしていた人々なのだろう。  身を乗り出して訊ねてきたのは、前者のひとりだった。 「そんな危険をあえて冒す理由が、なにかあったんですか?」 「想像されているほど危険はないですよ。潮の流れがきついことを予想して、水夫の人数を抑えて食料と水を充分に積み込みましたからね。たとえあと半月、航海がのびたとしても大丈夫だったでしょう。それも、繰り返し岬をまわるうちに、潮の流れも予想できるようになるだろう、と船団長も言っていましたしね」 「とは言っても、やはり普通より危険なことには変わりないですよね。それ相応の見返りがないことには……」 「まあ、そうではありますね」  ピアズが苦笑して認めると、先ほどより大勢の人間がうなずいた。 「それはやはり、最上質の絹ですか? それとも、珍しい宝石とか?」 「いや、ミセコルディア岬あたりはお茶の栽培が盛んだ。やはり、お茶じゃないか?」  口々に訊ねてくるのを端から否定し、 「そういったものではありませんよ。もっと実用性に富んだものです」  長く漂流し、ようやく船に助けあげられた漁師が持っていたというナイフの存在は、ある程度の情報網をもつ者なら、すでに知っているはずだった。だが、そのナイフが海水に錆びず、微生物での腐蝕も少ない金属からつくられていると知る者は、おそらくほとんどといっていいほどいないだろう。そのうえ、それを船の建造に使おうなどと考えた者は、デルマリナ広しといえども自分たちだけだろう、という自信がピアズにはあった。  最初に思い付いたのは、ピアズだ。すぐに鍛冶職人と造船職人に相談し、調査した結果、船底にうすく伸ばしたそれを貼り付けることで、船の寿命が現在の三倍は伸びるであろうことがわかった。また、船の補修費用も大幅に軽減されるだろうとも予想された。  船主にとってそれは、画期的な発見だといえた。船がなければ商売は成り立たない、だが船を新たに購入する費用、船を補修する費用は、しばしば商売で得た収入を上回ることさえある。それを軽減できるとしたら、これまで船を持てなかった人々、維持できなかった人々が、船主になれる可能性もぐっと高くなるはずである。もちろん現在、船を所有する商人たちにとっても、資金繰りが楽になるのは当然のことだ。  ピアズはこの計画を単独で実行するのは技術的側面から考えても無理だと判断し、先に相談をもちかけた造船職人と鍛冶職人を仲間に引き入れた。ふたりは自分の資金力に不安を感じたのか、あるいは危うい橋をひとりで渡りたくないと思ったのか、それぞれ懇意《こんい》にしている友人をひとりずつ仲間に引き込んだ。  仲間が増えることは、ピアズにとってあまり喜ばしい事態ではなかったが、とりあえずは黙認した。計画を知ってしまった者を仲間からはずして、無用に騒がれることを避《さ》けたかったからだ。  いまも、この仲間たち四人はピアズを取り巻く議員たちの間に混ざり、さりげなく会話を誘導している。 「なにか漏れ聞いた話では、今回訪れたその土地の人々は空を飛ぶそうですね?」  魚市場の支配人が、噂好きとの評判そのままのふりをしてピアズに訊ねた。とたんに、まさか、嘘だろう、という声があちこちからあがる。 「本当ですよ。船の帆のようなものを使って、空を飛ぶそうです。船団長はもちろん、水夫たちのほとんどが目撃しています」 「わかった! じゃあ、その船の帆のようなものを仕入れようと考えているんですね」 「ああ、それならわかる。空が飛べるものがあるなら、私だって手に入れたい」 「売れますよ、絶対に。空が飛べるなら、船なんかいりませんからね」  興奮して喋りまくる人々を、ピアズは微笑みながら眺めた。 (これだから、莫迦だというんだ。船は人が乗るためだけにあるのではない、荷を積むためにあるというのに——)  続いて口を開いたのは、禿げた頭をてからせた貿易商だ。 「いやぁ、ぜひ空を飛んでいるところを見てみたいものですな」  彼もまた仲間のひとりではあったが、ピアズは実はこの男こそ、総務会の切れ者と呼ばれるエルバ・リーアに、計画の内容を漏らした張本人ではないかと疑っている。計画の一端が漏れたきっかけは、造船職人の失敗だった。だが、造船職人のもらしたひとことだけで、エルバ・リーアが五隻の船団を用意するはずがない。 「ああ、それはいいですね。ピアズさんのところに滞在しているお客さまも、もちろん空を飛べるんでしょう?」 「らしいですね。彼は、かれらが�翼�と呼んでいる空を飛ぶための機材をデルマリナへ持参しています」  ピアズが答えると、控え室はどよめきに包まれた。 「それは——ぜひ、見せてください!」 「だめだめ、ピアズさんが商売敵にわざわざ見せるはずはないですよ。良さそうなものなら自分もぜひ、と思ってるんでしょう」 「いや、私はべつにそんなつもりで言ったわけではありませんよ。ただ純粋に、人が空を飛んでいるところを見てみたいと思っただけです。みなさんだって、見たいと思っていらっしゃるでしょう?」  ためらいがちにうなずく人々の顔を見回して、ピアズは肩をすくめてみせた。 「わかりました、仕方ありませんね——と言いつつ実は私もまだ、空を飛ぶ姿をこの目でみたことはないんですよ。見たいと思ってはいたんですが、まさかお客さまに、私が見たいので飛んでくれ、とは申せません」  あちこちで小さな笑いがもれる。 「皆さんが私に、ぜひとも見せて欲しいとおっしゃった。嫌だと答えればきっと、心の狭いケチな男だと思われる——だから飛んでみせてくれ、とお客さまに訴えましょう。そしてお客さまの承諾を得られたら、いまここにいる皆さま全員を御招待しますよ」  ピアズがそう告げたとたん、どっと歓声があがった。廊下を通りすぎようとしていた職員が、その歓声の大きさに驚いて、開け放った扉をのぞきこんでいる。 「ぜひとも客人を御説得ください。楽しみにしてますよ」 「場所は、どこがいいんでしょうね。よろしければ、うちの東地区にある別邸を提供させていただきますよ」 「いや、それだったらうちの別邸のほうが広い。ぜひ私に——」 「おまえの別邸は確かに広いが、あまりにも田舎すぎるじゃないか。あんな遠くまで出かけていくなんて、俺は嫌だぞ」 「ふん、だったら来なければいい」 「なにを……っ!」  あちこちで同様の騒ぎがおこっていた。ピアズはそれらを適当にやりすごし、ふと扉のほうへ目をやって、若手の小アルテ議員がふたり、人混みをかきわけ必死にこちらへ向かって来ることに気づいた。 「ちょっと失礼」  言い置いて椅子から立ちあがり、やっと近くまでたどり着いたふたりの前に出た。 「と……っ、投票の——」 「結果が出たのかい?」  訊ねるとふたりは顔を見合わせ、同時に「それが……」とつぶやいた。 「僕たち、椅子を取りに二階へ行ったんです。でも、持って来れそうな椅子が全然なくて、たまたま開票作業をしている部屋の隣に入ってしまって——」  ほんとにわざとじゃないんです、と声を合わせて言うふたりに、ピアズはうなずいてみせる。 「わかってるよ。大丈夫、きみたちを非難する者はいないだろう」  ピアズの言葉に安心したのだろう。 「なんか、変なんです。開票って見たことがないからわからないけど——」 「でも……票を部屋から運びだしたり、別の票をよそから運び入れたりはしないですよね?」 「変だなって思ってたら、声が聞こえて……」 「誰の声かはわからないんですけど、はっきりと『ピアズ・ダイクンの票がそんなに少ないのは変だ、もう少し増やせ』と」 「それから『ああ、そうだな。それぐらいだったら不審に思う者はないだろう』って聞こえたんです!」  いつの間にか、控え室は静まりかえり、全員がふたりの言葉に耳を傾けていた。 「——不正だ!」  誰かが、叫んだ。その声が呼び水となり、あちこちで怒声があがる。 「連中、票を操作してるんだ!」 「やつら、ピアズさんを総務会に入れたくないから……!」 「ちくしょうっ! これだから大アルテの連中ってのはっ!」 「抗議しよう!」 「ああ、当然だ。みんなでこれから連中のとこへ行って、やつらの罪をあばいてやるんだ!」  そうだと同意する声とともに、多くの人々が拳をふりあげ立ちあがった。何人かはすでに、扉のほうへと動きはじめている。  かれらを押しとどめたのはしかし、ピアズ自身だった。 「待ってください!」  よく通る声で叫び、手近な椅子に飛び乗った。 「行っても、無駄でしょう。不正はなかったと一蹴されるだけです」  人々を見おろして、そう告げる。 「そこ、扉を閉めてください。そう、外にいる方々も中へ入って——」  ここにいる百人強の議員たちは、ほぼ確実に全員ピアズに票を入れているはずだ。異分子があるいはまぎれこんでいるかもしれないが、それをいま探す余裕はなかった。  扉が閉められると、椅子の上からピアズはふたたび静かになった人々を見回した。 「これから皆さんは、静かに、なにごともなかったかのように、大評議会の間へ戻ってください」  そう言ってピアズは、反論しようと口を開きかけた男を、視線で制した。続いて報告してくれたふたりの若者へ目をやり、 「運び出された票が、どこへ行ったのか、わかりますか?」  ふたりは同時にうなずいた。 「長官の部屋です」  議会職員をたばねる役職が、長官である。他に裁判所と牢獄にも長官職が存在し、この三者は市民たちには、大アルテに近い存在であると看做《みな》されていた。 「ではまず、その票を内密に取り返しましょう。私ひとりがやってもいいですが——どなたか、手伝ってくださる有志は……」  すぐさま、三十人近い者たちの手があがった。やや遅れて続々と、ほぼ全員といっていい手があがる。 「ありがとう。けれどこれは、ちょっと二階へ行ってペンを借りて来る、といったわけにはいかないのです」  何人かが笑った。ピアズがしょっちゅうペンを忘れ、職員たちに借りるため二階へ行くことは、仲間うちでは有名な話だ。ただしピアズの本当の目的がペンを借りることではなく、職員たちと誼《よし》みを結ぶためであるとは、おそらく誰も知らないだろう。  どうしても自分が、と言ってくれた人々の中から、ピアズは若手の小アルテ議員を三人ほど選んだ。そして、あともうひとり必要かと周囲を見回し——ふと、造船職人と目が合った。  彼は自分が友人の葬儀の場で、計画の一端を暴露するような言動をしてしまったことをひどく気に病んでいた。彼が失地回復を望んでいるのは、ピアズにもわかっていたのだ。ピアズが先だっての宴で造船職人にかわって仲間うちの主導権を握りつつあった禿げ頭の貿易商を一喝《いっかつ》したことで、四人の中でのわだかまりはある程度とけたようだが、彼自身はそれではまだ足りないと感じているらしかった。そもそも造船に携わる職人たちは、義侠心にあつい男が多いものだ。デルマリナで火事や災害があったとき、かれらが真っ先に駆けつける。特に消火の巧みさは市民の賞賛の的であり、人々はかれらを尊敬し、頼りに思っていた。 「——お願いできますか?」  ピアズが言うと、造船職人はぱっと目を輝かせてうなずいた。 「では皆さん、なにごともなかったかのように、大評議会の間へ戻ってください。そしてできるなら、議会の開始を少し遅れさせるようにしてみてください」  そんなことなら簡単だ、と声が飛ぶ。 「俺とおまえが喧嘩すりゃいい。毎度のことだから、誰も変には思わんだろう」  あちこちから笑い声がもれた。大丈夫だ、雰囲気は明るい。  扉がふたたび開けられ、議員たちがぞろぞろと部屋を出ていく。ピアズは残って、有志の四人に手短に、票を長官室から運び出す手順を伝えた。 「では、行きましょう」  ピアズたちは他の議員たちに混じって、控えの間を出た。    * * *  長官室から票札を持ち出すのは、思ったより簡単な作業だった。  ピアズが二階へやって来るのはいつものことで、職員たちは彼が二階の廊下を悠々と歩いていても少しも不審には思わない。顔馴染みの職員が通りかかると少し立ち話をして、長官がいまどこにいるかをさりげなく聞き出した。  長官室にいないとわかると、階段のところで控えていた四人にそれを伝え、ピアズは職員たちが集まって仕事をしている部屋へと向かった。そして、いつものようにペンを借り、喉が渇いたなとつぶやくと、親しくしている職員の何人かが、まだ時間があるならとお茶をだしてくれた。  気軽に二階へ顔を出し、気軽に職員と話をする大アルテ議員など、ピアズの他にはいない。おそらく、小アルテ議員でも数少ないだろう。もちろんそれだけの理由ではないだろうが、ピアズは職員たちには好意をもたれていた。  ピアズがお茶を飲みながら、まわりにいる二、三人の職員を相手に、なにげなさを装って「我が家に滞在しているお客人」の話を始めたところ、先ほどの議員たちと同じように他の職員が次々にピアズのまわりに集まってきた。議場に勤務する職員は、四十名ほど。あっという間に、その全員と思われる職員たちがピアズの話に耳を傾け始めた。  大アルテにも小アルテにも属さないかれらだが、そんな一般市民の間にも、ピアズの邸に滞在する客人の話や、彼の所有する船がどこか遠くへ行って帰ってきたらしい、などという話はひろまっているようだ。それは、ピアズがレセプションを開いて客人を紹介し、わざと少しずつ情報をもらしていったからだろう。まったく何も知らせないより、確かな情報を少しだけ与えてやったほうが人々の興味をそそりゃすい。また、そのほうがピアズ自身、情報や噂を操作しやすくなる。  ピアズが職員たちに語り聞かせている間に、造船職人らの四人は長官室からまんまと票を運びだしているはずだ。  充分な頃合を見計らってから、そろそろ時間だからと話をきりあげ、お茶とペンをありがとうと告げて、悠々と主階へ降りたピアズは手順通り、四人の仲間と先ほどの控えの間で落ち合った。 「——すごいです、こんなにあるんです」  ピアズの顔を見るなり興奮ぎみの若い議員が、床に並べた麻袋をしめしてみせる。行商人が肩に担ぐような麻袋は五つ。 「ひと袋に、六、七十票は入ってますよ。やつら、票をすり替えるにも、ずいぶん手間がかかったでしょうね」  苦笑まじりに、造船職人も言う。  これだけで、三百数十票。つまり、小アルテ議員の半数以上がピアズに票を投じたことになる。ピアズが知る限り、これまで最も多くの票を得た総務会役員は昨年のエルバ・リーアで、総票数は三百六十だった。おそらく票を操作したかれらにとっても、ピアズが今回得た票数は予想外の多さだったに違いない。 「開会の鐘は?」  ピアズの問いに、まだと首が振られる。扉を開けて耳をすますと、大評議会の間からは騒がしい声が聞こえてきた。喧嘩でもすれば開会を遅れさせることは簡単だ、と言っていた彼が、早速実行にうつしてくれたのかもしれない。  だが声は次第に小さくなりつつある。開会の鐘も、間もなく鳴らされるに違いない。  行こうと合図しようと振り返ると、四人はすでに麻袋を手分けして背負っていた。自分もひとつ引き受けようとピアズが手を差し出すと、造船職人がそれを制した。 「このまま麻袋を背負って大評議会の間に入っていったのでは、ただの闖入者《ちんにゅうしゃ》です。ピアズさんが先に入って頃合をはかり、我々に入る時期を合図してください」 「しかし、それでは——」  長官室から隠された票を盗み出したのはこの四人だと、大アルテ議員たちに認識されてしまう。大アルテの商人に睨まれては、先々の商売に支障をきたすだろう。  あれこれ反論する間もなく、大評議会の間からは声が聞こえなくなった。 「静かになりました、急いでください」  背中を軽く押されて、ピアズは廊下に出た。大評議会の間と四人とを交互に見つめ、ピアズはきゅっと唇を引き結んだ。  言葉はない。ただ目礼し、急ぎ足で廊下を進んだ。  大評議会の間を前に、扉に手をかけたところで、開会の鐘が鳴り響いた。  ピアズが姿を現わすと、議員席から軽いどよめきがあがった。議長が苦々しげに、早く席につけと目で合図する。  ピアズは議長に目礼し、議員たちの間をぬけて席についた。ざわめいていた議員たちもピアズの着席と同時に静かになった。 「——これより、開票の結果を報告する」  議員たちの席よりも一段高い席から、議長が場内を見おろしながら重々しい声で告げると、現総務会の長老と呼ばれるヴィタ・ファリエルが席を立って前へ進み出た。  黒いガウンの内側から取り出したのは、濃紺の革張りをほどこしたカードだ。 「エルバ・リーアどの、二百八十六票。ヴィタ・ファリエル、二百五十三票——」  現総務会を構成する大アルテ議員の名前と得票数が、次々に読みあげられていく。  四人目もやはり、現総務会の役員だった。得票数は百八十二票と告げられると、小アルテ議員たちが小さくざわめき始めた。  総務会の役員は、全部で五人。最後のひとりの名が読みあげられ、それもまた現行役員だとわかったとたん、ざわめきはヴィタ・ファリエルの得票数を告げる声など全く聞こえなくなるほどの、非難の怒声へ変わった。  議長が静粛《せいしゅく》を促したが、怒声はいっこうにやむ気配もない。床を踏み鳴らす音、椅子をたたく音、そして議長や総務会役員たちを罵倒する声が飛び交う。  最初は小アルテ議員たちだけだったのが、やがて大アルテ議員をこきおろす声が聞こえだすと、大アルテ議員たちが罵倒には罵倒《ばとう》で応戦しはじめた。狭い通路をはさみ右と左で、拳をふりあげ互いの悪態をつく。その姿はもう日頃議会が自らを宣伝して言う「見識ある議員」のものではなく、街の悪餓鬼《わるがき》どもと変わりなかった。  罵声と怒号《どごう》を浴びせかけられ、気を悪くしたヴイタ・ファリエルが、開票結果の書かれたカードを壇上にたたきつけて、席へもどっていった。老人の御機嫌をとるために、あわててエルバ・リーアが彼の席へ駆け寄っていく。議長はおろおろと静粛を呼びかけるばかりで、それ以上この場をおさめるなんの手だても思いつかない様子だ。  そろそろ頃合かもしれないな、と考えたピアズは席を立ち、怒鳴りあう議員たちの間をぬけて、議長席へ近づいた。議長が驚いて目を丸くするのへ「失礼」と言い置き、鐘を手に取った。そして、力いっぱい鐘を振る。  声をはりあげるよりよほど、鐘の音は場内に響き渡った。飛び交っていた罵声が、少しずつ消えていく。こきおろす相手を睨んでいた人々の視線が、いったい何事かと鐘を鳴らすピアズに向けられる。  最後にもうひと振りすると、ピアズは人々の注目の中、にっこり微笑んで鐘を議長席にもどした。  怒声はもう聞こえない。ひそひそと交わす声はあるが、それがまた先ほどの騒ぎに発展する様子はない。我にかえった議長が空咳をして「静粛に」と告げると、ひそひそ声もやんだ。 「ピアズ・ダイクンどの、席へ——」  もどりなさいと命じる議長に、ピアズは笑みを浮かべたままその場で挙手した。 「議長、緊急動議を提案いたします」  ぎょっと目をみひらいた議長が、助けをもとめる視線をエルバ・リーアに向ける。彼がかぶりをふるのを見て取って、議長もあわてて首をふった。 「動議は……その、開票結果の発表のあとで提案していただくとして——」 「それでは遅いのですよ。失礼」  ぴしゃりと言い切ったピアズは、議長席に近い扉に近づくと、重い樫の扉を大きく開け放った。  ピアズの顔を見て、そこに待機していた麻袋を担いだ四人が、ほっと息をつく。 「お待たせして申し訳なかった」  どうぞ中へと促すピアズにうなずいて、四人が場内へ入ってきた。麻袋を背負ったその姿に失笑をもらす者もいたが、ピアズがそちらへ目を向けると、それも止んだ。  四人のうちひとりから麻袋を受け取ったピアズは、議長席までそれを運びあげ、壇上で袋の中身をぶちまけた。 「ここにある票はすべて、開票結果の数字には入れられていない票です。全部で、三百を越える」  告げて票をひとつ手に取ると、先ほどの騒ぎが嘘のように静まりかえっている議員たちに向け、高く掲げて見せた。 「無効票ではありません。もちろん、白票でもない。なぜ、これらが他の票とは別にして、それも隠すように保存されていたのか。全議員が納得できるご説明をいただけますか——現総務会役員の皆さま?」  穏やかな笑みを浮かべてピアズが言い終えると、議場はふたたび罵声と怒号に包まれた。先ほどのピアズにならって、議長があわてて鐘を鳴らしたが、騒ぎが止むことはなかった。  壇上から降りるピアズにも、野次が飛ばされた。だが彼は涼しい顔でやりすごすと、議長席へ駆け寄ってきた総務会の役員たちに目を向けた。横を通りすぎざま向けられた視線は、当然のことながら険しいものだったが、ピアズは顔色ひとつ変えず、かれらに目礼した。  皆に揉みくちゃにされながら席へもどったピアズは、議長席で総務会役員たちが頭を突き合わせ協議する様子を、周囲の人々が話しかけてくるのへ笑顔で相槌をうちながら、ながめていた。おそらく誰も、この騒ぎをおさめることはできないだろう。小アルテ議員たちはもちろんのこと、大アルテ議員たちの中にも、総務会への不信を声高《こわだか》に訴える者がいるのだから。  やがて協議がまとまったのか、総務会の仲間に囲まれたまま、議長が鐘を鳴らした。議長の声は聞こえなかったが、議長席に近いほうから順に「閉会だと」「三日後に臨時議会が開かれるらしい」と伝わってきた。  そそくさと立ちあがった議長が、他の総務会役員たちとともに、議場を出ていく。それに気づいて議員たちの数人があとを追いかけたが、議場の騒ぎになにごとかと駆けつけたのだろう職員たちに阻《はば》まれた。  扉前での議員と職員との攻防が落ちついたのを見計らって、ピアズは席を立った。話しかけてくる人々に返事をし、挨拶を交わし、求められた握手に応じ——そうしてやっとピアズが議場を出たのは、場内にほとんど議員たちがいなくなった頃だった。  夜のとばりがおりた広場を、うすい雲に覆われた月の明かりだけをたよりに、ピアズは舟着き場へと急いだ。石畳の上を歩くピアズの靴音が、ひとけのない広場に響く。  舟着き場におりる石段に足をかけたピアズは、ふいに足先を横切ったうすい影に気づいて背後を振り返った。 「——こんばんは。いい月夜ですね?」  のんびりとした相手の口調に苦笑して、ピアズは眼帯をしたほうの目をしめしてみせた。 「私には少し暗いですがね」 「ああ。でも多少暗いほうがいいんですよ。密談をするにはふさわしいでしょう?」 「——なるほど」 「あちらにうちの舟が付けてあります。ご一緒に月夜の散策などいかがですか?」  エルバ・リーアはそう言うと、優雅な手つきで広場の反対側を指さしたのだった。      3  それらしい舟が邸の舟着き場に横づけされたのは、夜更けというよりももう夜明けに近い頃だった。  まんじりともできず窓辺に座っていたケアルと同じように、隣室のエリも舟が着くのをずっと待っていたのだろう。すぐに扉が開いて閉まる音が聞こえ、廊下を通る人の気配がした。  気配が去るとケアルは立ちあがり、部屋を出た。階段の上に立ったところで、階下からひそひそと交わす声が聞こえた。なにを喋っているのかは、聞き取れない。  やがて階段に近づく足音がし、ケアルはとっさに飾り棚の横に身を隠した。階段をのぼる足音とともに、声が次第にはっきりと聞こえてくる。 「——だから、助けてやってほしいんだ。あんたなら、できるんだろ?」 「かいかぶってもらっては困るな」  すがりつくようなエリの声に応じるピアズの声は、ひどくそっけない。相手をするのも面倒で、さっさと切りあげてしまいたいと考えているのが伝わってくる声音だ。  もう少し、せめてふりだけでも親身になってくれてもいいんじゃないか? ケアルは思わずムッとして、飾り棚の陰で拳を握りしめた。  そんなピアズの態度はわかっているはずだろうに、だがエリはめげずに言い募《つの》る。 「んなことねぇだろ、嘘つくなよな。みんな言ってるぜ。エルバなんとかって大アルテの商人にサシで話つけられんのは、あんたしかいないってさ」 「私はついこの間、大アルテになったばかりの新参者だよ。エルバ・リーアどのといえば、名家中の名家に生まれた富豪だ」 「でもさ、あんたの娘、そのエルバ・リーアって男と結婚するんだろ? したらあんた、そいつの舅になるんじゃねぇか」  エリの言葉にケアルは驚いた。マリナとは何度も会話し、一緒に出かけたりもしているが、そんな話は聞いたことがない。 「それは単なる噂だよ」  苦笑まじりの声で、ピアズが否定した。 「とうの昔に下火になっていたと思っていたが、いまだそんな噂を口にする者がいるとは驚きだな」  たて続けに言い募っていたエリの声が、途絶えた。同時にふたりが立ちどまったのか、足音も聞こえなくなった。 「——ほんとに?」  いっきに気弱そうになった、エリの声がそろそろと訊ねる。 「ああ。考えてもみてくれないか。どこの馬の骨ともわからぬ私の娘と、名門中の名門に生まれたあの男が、結婚すると思うか?」  エリが返事をする声はなかったが、ピアズの「悪く思わないでくれ」と言う声がして、ひとりぶんの足音が聞こえてきた。エリを残し、ピアズが歩きだしたのだろう。 「——まっ、待ってくれ……!」  ピアズを追いかける、ばたばたとした足音が響く。 「けど、でもっ、オレもう、あんたしか頼る相手はいねぇんだよ!」  ふたたび、ふたりの足音が止まった。 「——どうしてきみはそんな、他人のことに一生懸命になるんだ? なにか恩でもあるのか、それとも……」 「ひとごとだと思えねぇからだよ!」  返したエリの声は、ほとんど悲鳴に近かった。 「——こないだの航海で、もしオレだけが生き残ってケアルが死んじまってたら。たとえオレのせいじゃなくても、故郷に帰ったらオレはきっと、領主さまに罰をうける。辛い思いして生き延びても、帰ったとたん死刑になるかもしんねぇんだ。そう考えたらさ、なんか……」  ケアルはとっさに、両耳をおさえた。  そんな言葉は、聞きたくなかった。なのに聞いてしまった。耳の奥で、鐘が打ち鳴らされているような音がする。 「島にいたときは、そりゃまあ皆に、領主さまの息子と親友だって思ってるなんて、頭おかしいんじゃねぇかって言われはしたけどさ。そんなもん、関係ねぇって思ってた。オレとあいつは、頭のかたい大人たちにゃわかんねぇ絆《きずな》で結ばれてんだぞ、ってさ」 [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_119.jpg)入る]  そうだ、その通りだ。おれだって、そう思ってる。 「でも、そうじゃねぇんだよな。島じゃ、オレがそんなこと言っても、まあいいかって、とりあえず許されてただけなんだ。オレが莫迦にしてた、頭のかたい大人どもにさ」  わかったんだオレ、とエリがため息まじりに言う。 「——もう、やめろ!」  思わず叫んだとたん、膝から力がぬけた。目の奥がじんわりと熱くなり、涙が出そうになるのを、ケアルは懸命におしとどめた。  こんなところで、泣けやしない。泣いたらきっと、エリが困る。エリが苦しむ。 「ケアル……っ!」  呼ぶ声にゆるゆると振り返ったケアルは、そこに夜目にもわかるエリの金髪を見いだして、小さくかぶりをふった。  ごめん、エリ。おまえがそんなふうに考えていたなんて、少しも気づかなくて。どうしてわかってくれないんだ、おまえならわかってくれるはずだろうと、おまえばかり責めていた。エリがどんなに辛そうな顔をしていたか、泣きそうな目をしていたのも、ちゃんと見ていたというのに。  莫迦なおれを、許してくれ。自分勝手なおれを、責めないでくれ。  おれのほうから、謝るから。だから、もういちど笑って、おれたちは親友だよなと言ってくれ。 「エリ、頼むから……」  いまも親友だと信じている——信じたい男の腕にしがみついて、ケアルは繰り返した。頼むから、と。何度も何度も。    * * *  ピアズが手ずからいれてくれたお茶を飲んでケアルがどうにか落ち着きを取り戻すと、エリとピアズはボッズという水夫の処遇について低い声で話し合った。  ケアルはその話し合いには、加わらなかった。白い磁器のカップを両手に持ち、放心したように話し合うふたりを——いやエリを、眺めていただけだ。  話し合いの結果、水夫は夜明け前に邸を去ることとなった。ピアズが彼を、ダイクン家の別邸で家令として雇《やと》うことになったのだ。  エリの熱意に押し切られたのか、ピアズに思うところがあっての決定なのかは、ケアルにはわからない。だがエリはひどく喜んでピアズに感謝し、彼を別邸へ送り届ける舟に自分も同乗すると言い出した。  別邸は夏の避暑用に使われ、デルマリナ市街から舟で片道でも一日かかるという。 「そんな長げぇ時間、知ったやつもいねぇで舟に乗せられてくなんて、かわいそうじゃん?」  だから一緒についていってやるんだとは、いかにもエリらしい理由だ。しかしケアルには、エリが自分を避けてそんなことを言い出したように思われてしかたがなかった。  慌ただしく、けれどひそかに用意がすすめられ、まともに話す時間すらとれないまま、ケアルは邸前の舟着き場からエリと水夫を見送ることとなった。 「んじゃオレ、行くから」  そう言って、いたわるような目を向けたエリに、ケアルは胸の奥をわしづかみされた気分になった。 「……うん」  うなずいて、返事をして。けれど、気をつけてのひとことさえ言えなかった。  ピアズと言葉を交わしたエリが、ボッズとともに舟に乗り込む。ピアズが紹介状だと言って、白い封筒を船頭に手渡した。  ゆっくりと舟が、離れていく。白みつつある空を背景に、舟の上でエリが手を振るのが見えた。思わずケアルは、舟着き場の石段を駆けおり、手を振りながら叫んだ。 「——エリっ!」  声は届いたのか、ケアルにはわからない。ただ、千切れんばかりに手を振り続けるエリの姿が、どんどん離れていくのを見つめていた。  邸内にもどろうとピアズが肩をたたいて促してくれたが、ケアルは舟が完全に見えなくなってもなお、舟着き場に立ち続けた。できるものならこのままこの場で、エリが帰ってくるまで待ち続けたいと思ったのだった。    * * *  モル・モストという男が訪ねてきた、と家令が告げたのは、昼過ぎのことだった。 「——モル・モスト……?」  それが何者かわからず首をかしげたケアルに、厳めしい顔つきの家令は、 「もしおわかりにならないようでしたら、蕪売りのモルと言えばわかっていただける、と申しておりましたが?」  ああ、とケアルはうなずいた。  デルマリナへ来た最初の日に、ケアルたちを港まで舟に乗せていってくれた男だ。舟賃を請求され、代わりにナイフを渡した。帰りもやはり送ってくれたのだが、ケアルたちがダイクン邸に滞在していると知ると突然、ナイフを返すと言い出したのだ。ナイフはいらない、そのかわりにピアズ・ダイクンに紹介をしてくれ、と。  誰かを紹介できるような間柄ではないと断ったのだが、男はしつこく食い下がった。結局エリが堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒を切らし、怒鳴りつけて無理やり追い返したのだが——。  あの男が今になって、何の用だろうか。 「お知り合いでしたか?」 「ええ、知り合いではあるけど……」 「もしお会いになりたくないのでしたら、追い返しますが?」  しばらく考えて、ケアルはかぶりをふり立ちあがった。 「とりあえず、会います。どこにいるんですか?」  蕪売りのモルは、邸内ではなく外の舟着き場でケアルを待っていた。ケアルが外に出ると、前のめりになり転がるような勢いで駆け寄ってきて、ケアルの手を握りしめた。 「良かった。良かった。出て来てくれるとは思わんかったです」  握りしめたケアルの手に頬ずりしかねない男の様子は、どうしても再会を喜んでいるだけとは思えない。 「あの……何か用が?」  不審もあらわにケアルが訊ねると、男は飛び上がり、 「ああ、そうです! そうでした!」  そう叫ぶと、懐から銭袋を取り出して、そのままケアルの手に乗せた。中に入っているのは金貨か銅貨かわからないが、ずっしりと重い。 「これで、こないだの取り引きはなかったことにしてください。ちょっと使っちまったけど、ちゃんと戻しときましたんで!」  意味がわからずケアルが首をかしげると、それをどうとったのか男はあわてて頭をさげた。 「すんません。いや、そりゃあ今更なかったことにはできねぇって怒られても仕方ねぇですけど。勝手なこと言ってるのも、わかってます。でも、そうしてくれないとうちは明日から食っていけないんですよ」  切々と訴えられ、ケアルは苦笑しながら男の肩に手を置いた。 「落ち着いてください。おれは別に、怒ってなんかいませんから」 「え? 怒ってねぇんですか?」 「ええ。ですから——その取り引きというのが何なのか、最初から説明してくれませんか。おれがあなたとした取り引きというと、舟賃の代わりにナイフを渡したおぼえしかないんですが、そのことですか?」  ケアルの問いに、男は目を丸くして何度も首をふった。 「ナイフをいただいた三日後に、あんたはうちに使いを寄越しましたよね? 実はそのナイフは大事なもんだから、金貨三枚で買い戻したいって——」 「使いなど出した覚えはありません。そのひと、ほんとにおれからの使いだったんですか?」 「ダイクン家の家令だって名乗って——身なりもしゃんとしてたし。それに、ナイフひとつに金貨三枚も出そうなんてのは、持ち主ぐらいなもんだと思って——」 「でも、おれは使いなんて出してません」  きっぱり否定すると、男は呆然とした様子でケアルを見返す。 「そ……そんな……」 「このお金は、だからいただけません」  ケアルが返した銭袋を、呆然としたままの男は取り落としてしまった。あわてて拾いあげようとしゃがみこみ、銭袋を握ったものの、しかし彼はそのまま立ちあがろうとはしなかった。 「どうすりゃいいんだ、俺は……。今まで真面目に働いて来たのに——なんで、こんなことになるんだ」  銭袋を握りしめたまま、ぶつぶつつぶやく男の薄くなった頭頂を見おろして、ケアルはひとつ息をつくと、一緒になってしゃがみこんだ。 「よろしければ、詳しい話を聞かせてください。あるいは、お力になれるかもしれませんので」  ほんとに? と顔をあげた男は、涙を流さんばかりにケアルの手を取り握りしめた。  蕪売りのモルは、ピアズ・ダイクンに紹介はしてもらえずがっかりはしたものの、ケアルが渡したナイフを酒場や市場の仲間に見せびらかし、自慢していたらしい。俺はピアズ・ダイクンの邸に滞在してるお客に、ナイフをいただいたんだぞ、と。 「俺らはみんな、ピアズさんを尊敬してるんです。だから、すごい羨ましがられて」  ちょっといい気分だった、と男は恥ずかしそうに告白した。 「あんたの使いだってひとが来て、ナイフの代金だって金貨三枚おいていったときも、こりゃ俺にもツキがまわってきたなって思ったんですよ。金貨三枚ありゃ、いま使ってる舟を売って新しいぴかぴかの舟を買える。蕪なんかじゃねぇ、もっと金になるもんを仕入れて市場で売ることもできる」  ところが昨日になって突然、市場の支配人が彼のところへやって来て、おまえにはもう市場の区画を貸してやれなくなった、と告げたのだ。 「市場ってのは、一区画なんぼで貸してもらうんです。店を持ってねぇもんは、市場でものを売るしかない。行商って方法もあるけど、そんなもん市場で売る半分も売れねぇ」  それでは一家五人が食べていけない、と男は言った。 「支配人が言うにゃ、俺があんたからもらったナイフ、あれを言い値で買い取るから、そしたら市場の区画を貸してやる、ってんです。もしなんだったら、半年ぶんタダで貸してやってもいい、って」  けれどナイフは金貨三枚で返してしまったあとだった。 「金貨三枚あったって、市場の区画を借りれなくなったら、どうしようもねぇ。店を持つにゃ、もっともっと金がいるし」 「市場は他にもあるんじゃないですか?」 「ありますよ。けど、どこの市場に行っても、俺にゃ貸せないって言われたんです」  昨日はデルマリナ中の市場をまわり、次々に断られたという。 「だからもう、あんたに会って、取り引きはなかったことにしてもらうしかねぇって思ったんです」  事の経緯《いきさつ》はわかった。 「それにしても、変ですよね。他の市場にしたって、全部で断られるなんて——」  まるで示し合わせたようだ。というより、実際に示し合わせたのではなかろうかとケアルは思った。確か、市場の支配人たちは小アルテに所属しているはずだ。同業組合という意味合いをもつアルテだから、当然のことながら横のつながりはある。 「俺には難しいこと、わかんねぇです。ただ支配人が、俺に区画を貸すと、市場に開放してる広場を貸してもらえなくなるって」 「支配人たちは、誰から広場を借りてるんですか?」  ケアルが訊ねると、男は「なんでそんなわかりきったことを訊くんだ?」と言いたげに目をみひらいた。 「誰とかじゃなくて、デルマリナ市ですよ。支配人らは広場の使用権利を買って、商売してんですからね」 「デルマリナ市……?」  男は当り前のことのように言ったが、ケアルにとっては完全に理解の範囲外だった。たとえばこれが故郷のハイランドならば、広場の使用を認める権限をもつ人物は領主しかいない。けれど、デルマリナには領主など存在しないのだ。  デルマリナ市のものとは、デルマリナ市民全員のものという意味だろうか? だったらなぜ、市民であるかれらが使用するのに賃貸料が必要なのだろう?  ケアルはふと、昨日マリナに聞いた話を思い出した。デルマリナには千人の議員がいて、かれらが話し合って市のあれこれを決めるのだ、というあれだ。ということはつまり、評議会で話し合った結果、支配人たちに広場を使う権利を譲渡することに決めた、というわけなのだろうか?  だったら、広場を貸す貸さないといった決定権は、評議会の千人の議員にある。かれらが市場の支配人たちに、なぜそんな圧力を加えるのか——? 「わからないな……」  しばらく考え込んだすえケアルは、不安そうな男の顔を正面から見つめた。 「よかったらおれを、その市場の支配人に会わせてください。話し合えば、解決の糸口が見つかるかもしれない」      4  ピアズ・ダイクンがようやく寝台を離れたのは、午後も遅くになってからだった。  まだ疲れがとれないのか、身体が重い。ついこの間までは、三日間ぶっ続けで寝食も忘れて仕事をし、なおかつそのあと友人らと酒場で飲み明かしても、ほんの少し横になれば翌日には仕事に打ち込めたものだ。  徹夜がこたえる年齢になってしまったのかと、ピアズはのんびりと遅い朝食をとりながら苦笑した。 「お客さまは、どうしている?」  給仕に来た家令に、ふと思いついて訊ねた。早朝に出立した友人を見送っていた若者の沈んだ様子が気にかかる。時間を考え、ここで話をするより休ませるほうが先だと思って、部屋に帰したのだが——。 「先ほど、お知り合いのかたがいらっしゃいまして、外出されました」 「知り合い?」  ピアズはわずかに目を細めた。このデルマリナに、彼の知り合いなどいるのだろうか。エリ・タトルのほうならいくらでもいそうだが、ケアル・ライスは誰とでもすぐ友人になれるような世慣れた青年ではない。  娘のマリナはケアルを気に入っているようだが、それはたぶん彼が扱いやすい男だからだろう。マリナのような娘には、気のきいた美辞麗句をならべて女をおだてあげるような男より、彼女の話に意見をはさむことなく真剣に耳を傾けてくれる男のほうが、よほど都合良いものだ。  しかし、他者の話に耳を傾けることができる男というものが、実は、自分の意見をならべたてるような男よりよほど器量が大きいのだとは、まだ若いマリナにはわからないに違いない。 「取り次ぎをした者に、訊いて参りましょうか?」 「ああ、そうしてくれ」  一礼して部屋を出ていった家令は、すぐに戻ってきた。 「お客さまを訪ねて来たのは、モル・モストという男だそうです。名を言ってわからないようなら、蕪売りのモルと言ってほしいと申していたそうで——」  とたんにピアズは器を卓に置き、立ちあがった。 「お客さまは、外出したと言ったな? その男と一緒に出て行ったのか?」 「はい。申し訳ございません、取り次いだ家令は新参者でして、だんなさまの御指示をいただくべきところを——」 「言い訳はいい。お客さまがどこへ行ったのか、わからないか?」 「舟に乗って出て行かれるのを見た者がおりますが、行き先まではちょっと」 「探せ! 今すぐだ!」  命じたピアズに頭をさげ、家令はあわてて部屋を走り出ていった。 「まったく……! どいつもこいつも!」  忌々しげに吐き捨て、ピアズは布巾を卓に投げつけた。    * * *  細い水路に面して建ち並ぶ住宅の外壁はどれも、鮮やかな色をしていた。 「このへんは、南地区出身の者が多いんですよ。特にモラン地区の出身者は、どこもかしこも珊瑚《さんご》色にしたがるんです」  もの珍しさを隠さず周囲を眺めるケアルに、蕪売りのモルはそう説明した。 「どうして珊瑚色なんですか?」 「珊瑚を銭袋に入れてると、金回りがよくなるって言われてましてね」  答えたのは、モルに連れられて行った先で紹介された、市場の支配人だという顔に大きな染みのある老人である。ケアルこそモルが取り戻したがっているナイフのもともとの持ち主だと説明したところ、老人はしばらく考えこんだすえ、こうして三人で出かけることになったのである。  老人がどこへ向かおうとしているのか、ケアルにはまだわからない。ただモルに、頼むから一緒について来てほしいと目顔で懇願され、この先の同行を承諾したのだ。 「——けど銭袋に入るような珊瑚なんて、せいぜいこのくらいの大きさのカケラぐらいなもんでしょう」  老人は親指を立てて、珊瑚の大きさをしめしてみせた。 「だったらいっそ、家中を珊瑚色にしてしまおうという発想ですよ。南地区の連中は、頭の中身が大雑把《おおざっぱ》な者が多いですからな」  老人の説明に、舟を漕いでいたモルがかすかに眉をしかめた。 「北地区の連中は、小心者が多い。東地区の連中は、働かないで楽することばかり考えている怠《なま》け者しかいない。そうデルマリナでは言われてますよ」  得々として語る老人にケアルは、あまりいい感情を持てなかった。 「あなたはどちらの出身なんですか?」 「あたしですか? あたしゃ、生粋《きっすい》のデルマリナっ子ですよ」  当然でしょうとばかりに老人が答える。 「祖父の代から市場の支配人をやってましてね、まあ、うちの市場じゃ揉め事がないってのが自慢ですかね」 「市場の支配人というのは、世襲《せしゅう》制なんですか?」  ケアルの問いに、老人は怪訝《けげん》そうな目を向けた。 「世襲制ってわけじゃないですが——けどふつう、どこの馬の骨ともわからん者に、市場の権利を貸したりはせんでしょう」 「でも、お金を出せば借りれるんじゃないんですか? だったら……」 「どこの馬の骨ともわからんヤツが、金を持ってるはずがないでしょう。特に外からデルマリナ市街へ出てきた連中なんてのは、要するに地元で食い上げて流れこんできたやつらばかりですからな。ろくな連中じゃない」  吐き捨てるように、老人が言う。南のモラン地区から出てきたというモルはしかし、苦々しげに顔を歪めただけで、なにも言わなかった。  老人の機嫌をそこねては市場の区画を借りられないと思って、なにも言わないのか。それとも、そう言われることが日常すぎて言い返す気にもなれないのか。 「おいっ、そっちの右の水路に入れ」  モルの様子など全く気にとめていない老人は、ふたつの水路が交わる寸前になって声をあげ、右を指さして命じた。  あわててモルが櫂を操り、水路を曲がった瞬間、舟が大きく揺れて水しぶきがあがった。 「おまえっ、水がかかったぞ!」  すぐさま老人は、モルを怒鳴りつけた。 「——すみません」 「下手くそがっ! これだから南地区の連中は大雑把だと言うんだ」  頭は悪いし、神経は雑だし、気はきかないし、と老人はあらん限りの悪態をならべたてる。そのうえ老人は、そういった悪態をつくことを、気のきいた一種の冗談だと考えているふしがあった。おそらく同じ市場の支配人仲間や、小アルテの仲間同士では、それこそ日常挨拶のように交わされている話題なのだろう。  しかし、それを聞かされるケアルはとても気のきいた冗談には感じられなかった。傲慢《ごうまん》な顔で悪態をつく老人のほうがよほど、頭の悪い、神経の雑な、気のきかない人間に思えた。老人が歯をむきだして笑いかけてくると、背中に寒気がはしった。 「あんたさんは、ピアズさんとこのお客さんだと聞いたが——どえらく遠いとこから来たというのは、本当なのかね?」 「ええ。船で約三ヶ月かかりましたから」  へぇ、とつぶやいて老人は、ケアルの全身をじろじろ眺めまわした。 「それにしちゃあ、あたしらとは変わらん姿をしていなさる」 「はあ……」 「噂じゃ空を飛ぶそうだが、それも本当なのかね?」 「ええ。�翼�という道具で、風に乗って空を飛びます」 「なんだ、道具を使うのか。あたしゃ噂を聞いたとき、背中に羽根がはえてるか、腕の代わりに羽根がついてるような人間なんだと思ったがね」 「それは、ちょっと……」 「ピアズさんも物好きだからね。きっとそのうち、羽根のはえた人間を見世物にして稼ぐつもりなんだろう、とも思ったが。あんたさんじゃ、見世物にはならんわな」  どうだ面白い冗談だろ、とばかりに老人は声をあげて笑った。櫂を操るモルも、お愛想のように笑ってみせている。ケアルは重い石でも飲み込んだような気分で、老人から視線をそらした。  舟は両側に壁の迫る狭い水路をぬけ、低い石橋の下をくぐって、大運河へと出た。昼を過ぎたこの時間、大運河は山ほどの荷を積んだ舟がひっきりなしに往来している。荷運びの舟を操る船頭たちは、主の自家用の舟を操る船頭らと違って、互いに大声で挨拶を交わしあったり、櫂を漕ぎながら陽気に歌をうたったり、中には喧嘩を始める者もいて、なかなかに賑やかだ。 「おい、あそこの邸に付けろ」  老人が指さし命じたのは、大運河に面した壁も屋根も真っ白な邸だった。両隣の邸もそれなりに大きな建物だが、その白い邸は両隣の建物が貧弱に見えるような大きさと豪華さである。  へいっ、と返事をしたモルが櫂を操り、舟をごてごてとした彫刻で飾りたてられた邸の正面へと向けた。邸の前にある舟着き場も、よそのそれとは規模が違うようだ。いちどに何艘もの舟が付けられる石段の下には、いまも白と金色で飾りたてた舟が二艘浮かんでいる。石段の上には、人待ち顔の船頭がふたり並んで座っていた。 「この莫迦がっ! 表に付けるやつがあるかっ! 裏へまわれ、裏へ!」  舟がその舟着き場へまっすぐ向かうと知ると、たちまち老人が怒鳴った。 「こんな汚い舟を、表に付けられるか! ほんとに頭の悪いやつだな」 「——すんません」  あわててモルは、舟を邸の横にある細い水路へ向け直した。 「この邸はな、なにを隠そうヴィタ・ファリエルどのの邸なんだぞ。こんなみすぼらしい舟で、正面からお伺いできるはずがなかろう」  はあ、とうなずくモルは、かわいそうなぐらい恐縮しきった顔をしている。 「あの——つかぬことをうかがいますが、ヴィタ・ファリエルという方はいったい何者なんですか?」  遠慮がちに訊ねたケアルに老人は一瞬、肩すかしをくらったような表情を浮かべたが、すぐに得心した様子でうなずいた。 「ああ。あんたさんは、デルマリナのことをよう知りなさらんのでしたな」  すみませんとケアルが謝ると、老人は満足そうに笑って胸をはった。 「ヴィタ・ファリエルどのは、人民評議会の最高執行機関である、総務会に名をつらねるお方ですよ。三代続けて総務会の役員をつとめていらっしゃるのは、ヴィタ・ファリエルどのおひとり。いわば名士中の名士、デルマリナを代表する御仁といえるでしょう」 「——ということは、大アルテの方なんですよね?」 「当り前でしょうが!」  老人はあきれかえったと言いたげな目つきで、ケアルを見た。 「そもそも総務会に入れるのは、大アルテの方々のみ。それも、人望・実力の両方を兼ね備えた御方しか無理だと言われとります」  ああ、とケアルはうなずいた。 「じゃあ、ピアズさんも総務会に入っていらっしゃるんでしょうか?」  この一ヶ月ほどそばで見ていて、ピアズ・ダイクンという男がその両方を持っていることはケアルにもわかった。人々に我々の希望だと言われ、エルバ・リーアなる名家に生まれた実力者と話をつけられるのは彼しかないと噂される——資格としては充分だろう。 「まさか!」  ところが老人は、冗談じゃないとばかりに首をふった。 「ピアズさんはそりゃあ、大した御仁ですがね。昨日や今日、大アルテになったばかりのお方が、まさか総務会になど入れませんて。まあ昨日の大評議会じゃ、投票のことでちょっと揉めたようですが——ピアズさんが当選するこたぁないでしょうよ」  ここだけの話、と老人は声をひそめる。 「一部には、ピアズさんを総務会へと推す者もおりますがね。その反対に、もとはどこの馬の骨かもわからん孤児だった男を、なんで大アルテにしたのかと憤《いきどお》る者もいる。味方も多いが、敵も多い御仁ですよ」  たぶん老人は後者なのだろう、とケアルは思った。  邸の裏手には、荷を積んだ舟が幾艘か停泊する舟着き場があった。油紙で包んだ荷を男たちが手分けして、舟から邸内の倉庫へと運び入れている。モルはかれらの作業の邪魔にならぬよう、いちばん奥に舟を寄せた。  老人はケアルにここで待つよう言うと、舟を降り、かくしゃくたる足どりで裏口へ入っていった。老人の姿が見えなくなったとたん、ケアルは我知らず小さくため息をもらした。するとケアルのため息が聞こえたのか、舟を水面に突き出た杭につなぎ止めていたモルが視線をあげ、ケアルと目が合うと、申し訳なさげに頭をさげた。 「なんか……すんません」 「いや、謝っていただくようなことはなにもありませんから」 「でも気を悪くなさったんじゃねぇかと……あのお人も、悪い人じゃねぇんだけど」  ぼそぼそとした声で言い訳する。エリがもしこの場にいたなら、思いきり顔をしかめて「どこがだ?」と言い返したことだろう。 「ほんとに、気にしないでください」  ケアルが繰り返し言うと、モルは少しだけほっとした顔をした。そして周囲をきょろきょろと見回し、よりいっそう声をひそめて、 「支配人はあんなこと言ってたですけど、俺は——ピアズさんが総務会に入ってくれりゃいいと思ってます。いや、俺だけじゃない、仲間はみんなそう望んでます」 「仲間というと……」  ケアルがつぶやくと、モルは気弱そうに苦笑して頭を掻く。 「アルテには入れない連中ばかりですけど……ピアズさんの力になることもできねぇ者ばっかですけど……でも——」  ああ、とケアルは得心した。デルマリナには七万の市民がいる。うち三百人が大アルテに、七百人が小アルテに所属する人々だ。大小どちらのアルテでもない六万九千人、人数にすれば圧倒的だが、なんの力にもなれぬこれらの人々こそ確実にピアズ・ダイクンという男の味方なのだろう。  七万人の市民に、わずか千人の議員。その中でも発言力をもつ大アルテ議員は、たったの三百人——マリナが父親が言ったことだと語ったその言葉の意味が、いまようやくわかったような気がした。ピアズがたとえ六万九千人の支持を得たとしても、大評議会においては何の力にもならないのだ。  故郷のハイランドでは、デルマリナに於ける大評議会の役割を領主ひとりが負う。領主ひとりが治めるのと、三百人の大アルテ議員が治めるのでは、どちらがより良い形態なのだろうか——?  考え込んでしまったケアルに、モルがおろおろと、 「すんません。なんか、阿呆らしいこと言って。そうですよね、俺らなんかがそんなこと言ったって、迷惑なだけですよね」  あわててケアルは首をふった。 「いえ、そういうわけじゃなくて。——きっとピアズさんは、皆さんにそう言っていただけて喜ばれると思いますよ」 「……でしょうか?」 「ええ。あの方は、そういう方ですから」  確信があるわけではなかった。そうであればいい、と思っただけだ。けれどモルはケアルのそんな安請け合いに、嬉しそうに顔をほころばせたのだった。      5  ピアズ・ダイクンがケアルの向かった先を知ったのは、食事をなかばに切り上げ書斎へ入って間もなくのことだった。 「市場の支配人……?」 「はい。モルの妻女が申すところによれば、ナイフを渡さねば市場の区画を貸さぬと言われたそうで——」  ケアルが舟代のかわりに渡したナイフは、すでにピアズが指示して回収済みだ。あのナイフはハイランドで産出する特殊な鉱物から造られたものだった。おそらく市場の蕪売りふぜいでは、ナイフの特殊性などわからないだろうと思ったのだが、用心するに越したことはないと考え回収を指示した。  それが裏目に出たのか——?  もちろん、市場の支配人ごときが自分の頭で考え、推測し、モルに迫ったわけではないだろう。 「あの市場の元締めはだれだった?」  市場となる土地を誰に貸し与えるかを決定するのは、総務会の役員たちの仕事だ。当然そこには駆け引きや賄賂《わいろ》が存在し、役員たちは土地を貸与されることが決まった市場の支配人らから見返りを受け取る。 「確か、ヴィタ・ファリエルどのかと」 「総務会の頑固爺いか」  難儀だな、とピアズは顎を撫でた。  現在、総務会は分裂状態にある。いや、分裂というよりも、役員五名の中でエルバ・リーアひとりがはじかれた状態であるというべきか。  原因のそもそもは、ハイランドから帰郷した船の破損状況に差があったことだ。五隻の船はそれぞれ、総務会役員たちの持ち船だった。最も被害の大きかったのはヴィタ・ファリエルの持ち船で、修復不可能、即廃棄処分となった。逆に最も被害が軽微だったのがエルバ・リーアの持ち船で、修理にかかった費用も定期的に行なわれる修繕の費用とさして変わらぬものだったのだ。  もちろん船の被害は天候ゆえであり、それは人事の及ばぬ領域である。ヴィタ・ファリエルの船が最も被害が大きかったのも、エルバ・リーアの船が最も被害が少なかったのも、どちらもただの偶然にしかすぎない。  おそらくヴィタ・ファリエルにもそれはわかっていたにちがいないが——しかし、なぜうちの船だけが、と憤《いきどお》ろしい思いはどうしても拭えなかったのだろう。そのうえエルバ・リーアには、かれらが敵対視しているピアズの娘との結婚の噂があった。もちろんエルバ・リーアは噂を否定したし、かれらもとりあえずは納得したのだが——昨日の大評議会での事件で、疑惑は再燃した。  総務会が票を操作したことをピアズに漏らしたのはエルバ・リーアではないか、とかれらは疑ったのだ。特にヴィタ・ファリエルは以前からエルバ・リーアをあまりよく思ってはいなかった。エルバ・リーアの野心を誰よりも危ぶんでいたのは、ヴィタ・ファリエルそのひとである。  ピアズ・ダイクンと通じているのではないか——仲間にそう疑われ、エルバ・リーアはそれならいっそ本当に通じてしまおうと考えたらしい。それが昨夜の密談だ。 「舟の用意を——いや、それはやめたほうがいいか……」  珍しく決断を迷ったピアズに、家令がこころもち首をかしげる。  少し考えたすえ、ピアズはペンを取りあげた。広げた紙は、ダイクン家の紋章入りの正式なものだ。  短い手紙を二通したためると、それぞれに封蝋《ふうろう》をして家令に渡す。 「いいか、絶対に間違えるんじゃないぞ。こちらはエルバ・リーアどのに届け、こっちはヴィタ・ファリエルどのに届けるんだ」  二通には、表書きがない。裏にピアズの署名があるだけだ。  念をおされた家令は三度確認し、緊張した面もちで部屋を辞した。  エルバ・リーアに届ける封筒にはヴィタ・ファリエルに宛てた手紙が入っており、ヴィタ・ファリエルに届ける封筒にはエルバ・リーアに宛てた手紙が入っているのだと——知っているのはもちろん、ピアズただひとりである。  臨時議会が開かれるのは、二日後。そのときには、総務会の分裂はだれの目にもあきらかなものとなるだろう。    * * *  ケアルが通されたのは、絵画や彫刻、硝子製品などでやたらに飾りたてた、豪華ではあるが趣味の悪い部屋だった。  市場の支配人も部屋のすぐ前まで一緒についてきたのだが、案内の家令に遠慮するように言われて、渋々ながらに引きあげていった。  部屋に通され、お茶も何も出されぬまま、ケアルはずいぶんと長いあいだ待たされた。壁にかかる絵画をすべてじっくり検分し、飾ってある彫刻を全部あらゆる角度から鑑賞し、戸棚に並べられた硝子製品をひとつひとつ眺めまわし、とうとう見るものもなくなってこれはもうひと眠りするしかないなと考え始めたところで、やっと扉が開いた。  家令に開けさせた扉から悠々と入ってきたのは、豊かな白髪を丁寧に撫でつけた、厳《いか》めしい顔の男だった。老齢ではあったが市場の支配人だというあの老人に比べ、肌艶も良く動作のどこにも澱《よど》みがない。身体にぴったりとあった長い上着には細かな刺繍がほどこされ、折り返しのある袖からのぞく指は、よく手入れされた爪が艶々と光っている。 「ようこそいらっしゃられた」  差し出された手を握ると、生まれてこのかた身体をつかっての労働などしたことがないのだろうとわかった。 「はじめまして。ケアル・ライスです」 「ヴィタ・ファリエルと申します。ようやくお目にかかれましたな。ピアズ・ダイクンは吝嗇《りんしょく》ではないが、妙にもったいぶった男でしてな、噂を煽《あお》るだけ煽ってなかなか噂のお客人を紹介しようとはせん。わしなど気が長いほうだと思うが、それでも、いつ紹介してくれるかとそろそろしびれをきらしかけておりましたよ」  口もとに笑みをつくっての言葉だが、言外にピアズ・ダイクンを非難しているのはあきらかだ。要は、デルマリナ中に噂となるような客人は、自分にこそ最初に紹介するべきだ、ということか。 「だがまあ、今日からあなたはピアズ・ダイクンのお客人ではなく、我がファリエル家のお客人となったわけですからな。あれこれ言うのはもう、よしておきましょう」  言いながら男は、扉のそばに控える家令を振り返った。 「お茶の用意を。それから、お客人が滞在なさる部屋を用意しろ」  先の言葉の意味をケアルが聞き返すいとまも与えず、男は家令に指示をだす。 「ちょっと、待っ——」 「さあ、隣の部屋へどうぞ。ちょうど今朝、珍しい茶葉が荷揚げされましてな。果実のような甘い香りがするお茶で、店に出しても半日で売り切れてしまう人気の品なんですよ。お口にあえばよいが、あなたはどのようなお茶がお好みかな?」 「待ってください!」  やっとのことで声をはさんだケアルを、男は目を細めて振り返った。 「おれは、こちらに滞在するために伺ったんじゃありません。モル・モランという男が、おれの渡したナイフを持って来ないと市場の区画を貸してもらえない、と言うので——責任者のかたと話をしに来ただけです」  男はケアルの顔をじろりと眺め、小さく鼻を鳴らした。 「そのモルとかいう男とは、どのようなご関係かな?」 「おれが、ですか?」 「そう。なにか弱味でも握られておるんですかな?」  まさか、とケアルは即座に否定する。 「デルマリナへ来た初日に、舟に乗せてもらったんです。港まで行きたかったのに、どうしたら行けるのかわからなかったところを、助けてもらったんです」 「けど、舟代は払ったんでしょうが? それも、かなり上物のナイフだと聞いておりますぞ。ピアズ・ダイクンの邸と港を三十回往復しても釣りが出ると、そのモルという男は仲間に自慢しておったそうじゃないですか」  男が興味深げに眉をあげると、皺の多い額により深い皺が刻まれた。老齢といっても六十代そこそこかと見ていたが、あるいは八十歳をとうに越えているのかもしれない、と思えた。 「モルは、おれを騙《だま》したわけじゃありません。彼は何度も、ほんとに舟代としてもらっていいのか、と訊きました。そのうえ最後にはナイフを返すとまで言ってくれたんです。でもおれは、それを断りました。なのに、おれが渡したナイフで彼が厄介事《やっかいごと》に巻き込まれたというなら、おれにも責任の一端はあると思います」 「つまりあなたは、舟に乗せてもらったという取るにもたらぬ義理のみで、わざわざ出かけてきたというわけですかな?」 「そうです。ただしおれは、取るにたらぬ義理とは思っていませんが」  挑むようにケアルが言い切ると、ヴィタ・ファリエルは哄笑《こうしょう》した。 「おもしろい御仁だ。ではその義理でもうひとつ、我がファリエル家の客人となっていただけませんかな。あなたから望んで我がファリエル家の客人となってくださるなら、あの蕪売りの男に市場の区画を貸与しますぞ」  どうですかな? とヴィタ・ファリエルは軽く両手をひろげてみせた。これがデルマリナの代表執行機関である総務会に名をつらねる名士と言われる人物なのか、とケアルは呆れた思いで男を見つめる。 「——おれなんかを客にして、どうするんですか?」  なかばため息まじりで訊ねると、彼は軽く目をみひらいた。 「デルマリナを訪れた遠来の客人をもてなすのは旧来より、総務会に名をつらねる名家の義務なのですよ」 「義務、ですか……」 「誤解していただいては困るが、我らは客人にデルマリナを正しく理解してもらわねばならん。総務会に名をつらねるとはつまり、デルマリナの利益を代表しておると同じ意味をもつのです」  つまり、ピアズ・ダイクンのもとに居てはデルマリナを正しく理解できない、と言いたいわけなのか、とケアルは苦笑した。  この場にエリがいればきっと、こんなじじいのとこにいるより、ピアズのおっさんのとこにいたほうがよっぽど、デルマリナって結構いいとこじゃんと思えるぜ、とでも言い放ったことだろう。あるいは、このじじいがデルマリナの利益を代表してるなんてぬかすようじゃ、デルマリナもたいしたことねぇな、と肩をすくめるか。 「もてなす者の不手際で、お客人がデルマリナに悪印象をもたれるなど言語道断。我らにはそうならぬよう、手を尽す義務があるのですよ」  ヴィタ・ファリエルが得々と語る。つまり、ピアズ・ダイクンの邸ではろくなもてなしもされなかったに違いない、と言いたいわけなのだろう。名門の家に生まれたという自尊心と、ピアズに対する敵愾心《てきがいしん》。双方があいまって、デルマリナの内情など詳しく知らないはずの客にまで、こんな言い方をしてしまうのだろうと考えると、ケアルは彼が憐れにも感じられてしまった。  扉のそばで控える家令に、別の家令がやってきて耳うちするのが見えた。うなずいた家令は「だんなさま」と呼びかけ、振り返ったヴィタ・ファリエルに頭をさげる。 「お茶のご用意ができました——」  軽く手をあげ、わかったと合図したヴィタ・ファリエルはケアルを促した。 「どうぞ、隣の部屋へ。我らデルマリナの利益を代表する者として、心からのおもてなしをいたします」  故郷のハイランドでは、お茶は健康と養生のために飲まれていた。しかしデルマリナでは、休息と楽しみのために喫するものであるらしい。  ピアズのところでも、食事の最後にはお茶が必ず出されたし、午前と午後にお茶の時間があって、そのときはお茶の他に焼き菓子や果物などが卓にならべられた。  だが——とケアルは通された部屋で、呆れるのを通り越し、なかば感心して、周囲を見回した。 (たったふたりでお茶を飲むのに、なんでこんなに大勢の給仕がいるんだ……?)  ケアルとヴィタ・ファリエルの後ろにはひとりずつ、お茶を器に注ぐ給仕がいる。その他に、果実を切り分ける係、焼き菓子を皿に移す係、皿をケアルとヴィタ・ファリエルに手渡す係、新しい茶葉を蒸らす係——それぞれに役割の決まった給仕がいるのだ。  ハイランドにも、家令を山ほど従えて他領を訪れる領主がいた。家柄と血筋の良さが自慢の領主で、格式と伝統を尊ぶことになによりも重きをおく人物だった。家柄の格にふさわしい生活をするためには、傍目には不必要なほど大勢の家令を必要とするらしい、とケアルの父は笑っていたものだ。  ヴィタ・ファリエルもまた、その領主と同じ人種らしい——そう考えながらケアルは、優雅な仕草でお茶を飲む男を眺めた。いま彼が話題にしているのは、その昔、シバ茶原産地の長を客人としてもてなしたことがあるという曽祖父についてだった。客人のために、いかに豪華な居室を用意したか、夜ごとの宴に出された酒や料理のすばらしさ、そこに招かれた人々の数の多さ、などなど。客人はそんなもてなしに感激して、シバ茶の扱いの一切を彼の曽祖父に任せたらしい。  適当に相槌をうちながら、ケアルは彼の話を右の耳から左の耳へ聞き流した。  故郷を出るとき、父から受けた指示はただひとつ、デルマリナの現状を知ることだけだった。ケアルがするべきは、故郷に帰って父に私情をまじえぬ正確なデルマリナの情報を伝えること。たとえ豪華なもてなしをうけ感激したとしても、なんの権限も持たぬケアルが確約できることなどない。できるとすればせいぜい、父への報告にさりげなく主観をまじえる程度だ。だが察しの良い父が、主観をまじえた報告を鵜呑《うの》みにするはずがないのは目に見えている。 (ああ、だからか……)  ふと思い当たって、ケアルはひとりひそかに首肯《しゅこう》した。なんの権限も持たぬケアルだから、この先、将来にもなんらかの権限を持つ可能性のない三番目の息子だから、父は自分をデルマリナへ寄越したのだろう。 「——失礼いたします」  ヴィタ・ファリエルの語りがようやく一段落つくころ、扉が開いて、給仕とは別の家令が部屋に入ってきた。機嫌良く振り返ったヴィタ・ファリエルに家令は小走りで近づくと、なにごとか耳打ちした。  家令の言葉を聞くと、彼の表情がたちまち険しくなった。眉根を寄せ、口もとを歪めて、わかったと家令に告げると彼は、ケアルへ向き直った。 「申し訳ないですが、所用ができましたので、しばらく席を中座させていただきたい」  言いながらヴィタ・ファリエルはすでに立ちあがり、申し訳ないと繰り返して、そそくさと部屋を出ていった。  どんな所用だったのか、ケアルには知るよしもないが、やがて戻ってきた彼はひどく不機嫌だった。  椅子に座った足を何度も組みかえ、手にした器を幾度も持ちかえ、落ち着かず苛々しているようにみえる。祖父の手柄話などを始めてみたものの、語りは途切れがちで、表情も冴えない。  家令を呼び寄せ耳打ちし、戻ってきた家令がまたヴイタ・ファリエルに耳打ちし——そんなことを何度か繰り返したのちに、とうとう彼は苛々と立ちあがった。 「だれかっ! お客さまを部屋に御案内してさしあげろ!」  怒鳴るように言い放った彼は、ケアルになにも告げず、部屋を出ていった。いったい何があったのかと、ぽかんとしてヴィタ・ファリエルを見送ったケアルだったが、すぐに飛んできた家令はなにごともなかったように落ち着きはらって促した。 「——どうぞ、こちらへ。お部屋まで御案内いたします」 [#改ページ]    第七章 襲撃と攻防      1  月のない夜だった。外では風が獣のような咆哮《ほうこう》をあげ、樹木の枝のこすれ合う音が女の悲鳴のように聞こえる。  エリは窓の枠に尻をかけ、ひとり酒杯を傾けながら外をながめていた。暗さに慣れた目には、大きく揺れる樹木がうごめく闇のように見えた。  床の上では水夫のボッズが、酒壺を抱えたまま、かすかな寝息をたてている。さすがにふたりで壺三つでは、酒量が過ぎたかもしれない。 (ケアルとだと、いっくらでも飲めんだよなぁ。あいつ、めちゃ強いから——)  いや強いというより底なしだよな、と苦笑したエリだったが、すぐに眉根を寄せて杯を見おろした。  あんなこと、ケアルに聞かせるつもりなんかなかった。いつだってケアルはエリを、唯一無二の親友として扱ってくれた。心の底から信頼してくれたし、きっとケアルはエリも彼を心の底から信頼していると思っていたにちがいない。  エリ自身ずっと、オレたちは島人と領主の息子などということは関係なく、親友であり続けるはずだと思っていた——いや、そう思おうとしていたのだ。 (だって島にいたときは、オレにはケアルしかいなかったし、ケアルにもオレしかいなかったもんな……)  親友と呼べる人間どころか、友人と呼べる相手さえふたりにはいなかった。  しかし、デルマリナまでの長い航海を水夫たちとともに乗り切ったエリには、信頼できる仲間ができた。助けあって死線を乗り越えてきた仲間同士には、親兄弟さえ越えた連帯感がうまれるものだ。  航海中、水夫たちと交わることも少なく、与えられた船室にこもることが多かったケアルには、残念ながら仲間をつくることはできなかった。自分が水夫たちに橋渡ししてやるべきだったのか、ともエリは考えた。だが、仲間をつくる、人と人のつながりをつくるとは、誰かに助けてもらってできることではない。  また、表面上はケアルとエリは同等の客人として遇されていたが、水夫たちはエリがデルマリナの船乗りを父親にもつことを知っていた。それだけでもうかれらにとっては、見知らぬ土地の家令に傅《かしず》かれて育った権力者の息子より、エリのほうが仲間として受け入れやすいのは当然だったといえるだろう。  けれども、とエリは思う。 (ケアルは全然、仲間なんかほしがってなかった——)  エリだけを親友とし、それで満足だったのか——いや、そうではないだろう。航海中もデルマリナへ到着してからも、ケアルは領主の代行として、使命をはたすことのみを考えていたのだ。  故郷の代表者としての自覚をもつべきだと繰り返し言い、夜ごとの宴で見世物同然に扱われても自らを律して文句ひとつもらすことなく、人々と話をするときも何が故郷にとって最も良いことか考えて言葉を選ぶ——そんなケアルをエリは、この一ヶ月ずっと見てきた。そして、自分は父親の生まれ故郷を見たいという感覚しかなかったのだと、思い知ったのである。  島にいたころは、ケアルは領主の息子ではあったが、なんの責任もない三男坊でしかなかった。だからこそふたりは親友でいられた——いや、親友だとお互いに信じこむことができたのだろう。  ギリ領の使者を殺害したというボッズの告白を聞いて、エリは殺された使者たちよりもボッズら水夫の気持ちのほうがより理解できた。もしケアルが死んで、エリひとりが故郷へ帰ったとしたら、ロト・ライスはエリに罰を与えるだろう。だが逆に、エリが死んでケアルひとりが帰ったとしても、決して同じことは起こらない。  ——その、差。  ふたりの差は故郷にいたころから存在していたはずなのだ。けれどふたりしてその存在から目をそむけていた。それを認めてしまっては、ふたりは互いに唯一無二の親友をなくしてしまう。それが怖くて、ずっとずっと目をそむけていただけだ。 (もう、わかっちゃったもんなぁ……)  わからなかった頃には、もう戻れない。戻ってしまっては、将来きっとケアルはそれに苦しむことになるに違いない。 「ケアル……」  たとえそうであっても今なお心の中では親友である男の名をつぶやき、風にたわむ樹木へ視線を移したエリはふと、その下に動くものを見つけて目を細めた。  風に揺れる枝ではない。風に飛ばされた何かでもない。こんな夜に風に逆らい動くものなど、人間しかいないだろう。  その数はざっと見たところ、十人を超えていた。こんな夜中に十人もの人間が、なぜ邸に近づくのか。  エリは窓辺から離れると、床に置いた光をしぼった灯に近づき、完全に明かりを消した。そしてそっと部屋を抜け出し、廊下を足音をしのばせ通りぬけると、階段の手すりに身を寄せて階下の様子に聞き耳をたてた。  邸には八人の家令が年間を通じて雇われていた。うち四人は夫婦者で、離れの小屋にそれぞれ三人と五人の子供とともに住んでいた。残る四人は若い女が三人と、年老いた男がひとり。こちらは邸内の西端に部屋を与えられ、住み込んでいる。エリがいまいるのは邸の東端で、ピアズがここを訪れたとき臨時に雇い入れる家令たちの部屋があった。  とりあえず今のところ階下には、人の気配はない。ただたとえ物音がしたとしても、この風の音にかき消されて聞こえないかもしれないと思えた。  思いきって階下に降りたエリは、西の棟に続く廊下に足を踏み入れたとたん、びくっと飛びあがった。 「なんだ……?」  激しい風の音に混じって、かすかに女の声。そして、なにか重いものが倒れたような音。エリの全身が、ざわっと鳥肌立った。  すぐさまエリは階段にとって返し、部屋にもどると、酒壺を抱いて幸せそうに眠りこけているボッズを揺り起こした。  気持ちよく眠っているところを起こされ、半分まだ寝惚けながら不満の声をあげようとしたその口を、エリはあわてて抑えた。 「声を出すな。邸に侵入したやつらに気づかれるぞ」  耳もとに囁きかけると、ボッズはひくっと息を飲み込んでうなずき返した。エリが手を離すと、ボッズはエリの腕にしがみつき、 「な……なぁ、そいつら俺のこと捜しに来たのか……?」 「わかんねぇよ、んなこと」  ただ、すごくヤバい気がする、とエリは小さくつぶやきながら立ちあがった。 「逃げたほうがいいかもしんねぇな」 「に、逃げるって、どこへ……?」  そんなことわかるかよ、とエリは顔をしかめる。こっちはデルマリナに来て、まだひと月そこそこなんだぞ。おまけにそのデルマリナからも離れて、どこに何があるのかもわかんねぇ村にいるんだ。内心でそう苦々しく思いつつも、エリはボッズを安心させるように彼の背中をたたいて提案した。 「とりあえず、離れの小屋に行こう」  夫婦者の家令たちは、少なくとも男のほうは力仕事を担当する屈強なふたりだ。力を合わせれば、なんとかできるかもしれない。  そうと決めると、エリはボッズとともに部屋を出た。階段を降り、西棟まで通じる廊下へ足を向けたボッズを引きもどし、手近な部屋に入った。 「——なんで、こんな部屋ん中に入るんだよ?」  不審がるボッズに、黙っていろと合図して、埃よけの白い布がかけられた家具の間をぬける。窓ごしに外を確認し、ボッズを振り返った。 「窓を開けたら、すぐに外へ出て、いっきに小屋まで走れ」  風のおかげで多少の足音などは消されるが、窓を開ければその強い風が吹き込み、部屋中が激しい音をたてるだろう。そうなれば、侵入者がよほど間抜けでない限り、邸内にまだひとが残っていると知られてしまう。  わかった、とボッズがうなずくのを見てとって、エリは窓を開けた。なまぬるい風が固まりとなって、吹き込んでくる。 「行けっ!」  エリの合図に、ボッズは窓枠を乗り越えて外へ転がり出た。すぐあとに続いたエリは、足をもつれさせるボッズを抱えるようにして、樹木の多い広い庭を横切り駆けた。  夜目にも、こんもりとした木々が大きく揺れ、草々が生き物のようにうごめくのが見える。まるで波の上を走っているようだ、とエリは頭の片隅で思った。  踏み飛ばされる草の青臭い匂い、唸りをあげて吹きつけてくる風——遠い故郷の島の、翼の発着所とされていた台地を思い出す。あの頃、唯一無二の親友が空からやって来るのをエリはどれほど心待ちにしていたことか。どんなに辛いことがあっても、悔しくて腹立たしくてどうしようもなくなっても、オレには親友がいるんだと、それだけで心満たされていた日々……。 (ケアル、翼、白い大きな翼よ——!)  白い翼はずっと、エリの希望だった。空からやってくる親友に、エリはずっとずっと救われていた。 (オレたちを守ってくれ……!)  夫婦者の家令たちが暮らす小屋は、樹木の途切れた庭の端にあった。そこから丘をくだり、葡萄畑をぬけると、小さな村に出る。村の住人は、五十人たらず。ピアズ・ダイクンの所有する土地を借りて葡萄《ぶどう》をつくる、小作農民たちである。  小屋に近づいたエリは、風に混じる匂いにはっとして足を止めた。すぐにボッズがエリに走り寄り、なにをしているんだと促す。 「——血の匂いだ」 「なんだって……?」  ボッズは風上に顔を向け、くんくんと鼻を鳴らした。 「血の匂いなんか、しねぇぜ」  否定するボッズには応えず、エリは小屋の粗末な扉を開けた。とたんにむっと生臭い血の匂いが、肺の中に入りこんできた。  小屋の中は外よりも暗く、ものの形もわからない。だがエリに続いて小屋の中に入ったボッズも、さすがに血の匂いには気がついたようだ。  ぐっと嘔吐《おうと》をこらえるボッズに、早く扉を閉めろと言い放ち、エリは手さぐりで奥へと進んだ。扉が閉められると、生臭い血の匂いはますます強くなった。  ぬるりとした感触に足をとられ、転びそうになったエリはあわててそばにある何かにつかまる。だがその瞬間、エリは小さく悲鳴をあげて手を引っ込めた。  がくがくと顎が鳴りそうになるのをこらえて、エリはいま触れたものに目をこらす。生暖かな液体に濡れた、まだ柔らかなそれ。 「ひでぇ……っ、なんでだよ……」 [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_151.jpg)入る]  口をついて出たつぶやきに、ボッズが近づいて来て、やはり悲鳴をあげた。  小さなそれは、昨秋うまれたばかりだという夫婦者の家令の赤ん坊だった。エリとボッズがここへ着いたとき、家令たちとともにその子供らも紹介されたのだ。ころころ太った赤ん坊は卓の脚につかまって立ち、えくぼのある手をエリにのばして、なにが嬉しいのかきゃっきゃっと声をたてて笑った。  その赤ん坊が、とエリは唇をかみしめる。悔しくて悲しくて、なによりも憤《いきどお》ろしい。 「赤ん坊まで殺すこた、ねぇだろ……」  二間しかない小屋には、そこに暮らす人数ぶんだけの死体があった。斧のようなもので殺されたのだろう、床はそこらじゅう血で濡れ、歩くことも難しい凄惨さだった。  一縷《いちる》の望みをかけて、隣合う小屋にも行ってみたが、そこも同じだった。母親がふたりの我が子を両手に抱いてこと切れているさまに、エリもボッズも言葉さえ出なかった。  もう鼻がなれてしまって、生臭いとも感じなくなった小屋の中で、エリは放心して粗末な椅子に腰をおろした。ボッズがせわしなくエリの前を行き来しては、扉のそばに駆け寄り、外の様子をうかがっている。 「な……なぁ、これからどうすんだ? やつらこっちに戻ってくるかもしれねぇぜ」 「戻っちゃ来ねぇさ」 「なんで、んなことわかんだよ。ぜってー、逃げたほうがいいって。村へ行ってさ、どっかにかくまってもらうとか、村の男連中をつれてくるとかしたほうがいいんじゃねぇのか?」  ほら、行こうぜと促すボッズを、エリはだるそうに見やる。 「村人たちが全員、オレらの味方だって保証はねぇぞ」  エリの言葉に、ボッズは飛びあがるようにして振り返った。 「そ……そうだよな、うん。そうだ」 「やつらの目的が、もの盗りなんかじゃねぇことは確実だ。もの盗りなら、邸からこんなに離れてる小屋の家令たちまで殺すはずはねぇからな」 「や、やっぱり俺が目的なのか……?」 「たぶんな。けど、それだけじゃねぇよ。あんただけが目的なら、それこそ赤ん坊まで皆殺しにゃしねぇさ」  邸内にいる四人の家令もまた、確認こそしていないがおそらく全員、殺されているに違いない。 「だったら……なにが目的なんだよ?」 「ピアズのおっさんかもな。おっさんに恨みがあるヤツが、あんたを捕まえるついでに、うさ晴らししたのか——」  いや、とエリは軽く首をふった。 「こりゃ、警告かもしれねぇな」 「なんだよ、その警告ってのは」 「あんたをかくまったピアズのおっさんに、次は別邸なんかじゃなく、本邸のほうを襲うぞって意味か。余計な手出しをしやがって、今度やったら許さねぇぞって意味か」  たぶん後者ではないか、とエリには思えた。大・小どちらのアルテにも属していないデルマリナ市民の間では、ピアズ・ダイクンの評判はすこぶる良い。大アルテをこきおろすのを趣味にしている人々も、それがピアズ・ダイクンとなれば別らしい。酒場や街中でエリは何度も、人々が『ピアズ・ダイクンには総務会に入ってほしい』と言っているのを聞いた。そのピアズが、他の大アルテ商人に先がけてハイランドへ船を送り、ケアル・ライスという正式な使者を連れ帰ったのだ。 (ただでさえ恨《うら》まれてるとこに、エルバ・リーアとかいう大アルテ商人が怒って追っかけてるボッズを匿《かくま》った、なんてこと知られたりしたらな——)  黙ってはいられないだろう、ぐらいのことはエリにもわかる。 (故郷でも、上に住んでる連中ほど、金持ちで権力もってる連中ほど、いったん恨みをもつと、すげぇしつっこいもんなぁ)  問題は、どこからどんなふうにして、ボッズがこの別邸にいることが漏れたのかだ。 「な……なぁ、どうする?」  情報がどこから漏れたかなどよりも自分の命にしか興味はないのだろうボッズは、ふたたび外をうかがって戻ってくると、エリに問うた。エリとしても、彼が自分の命にしか興味がないことは当然だと思うし、それで彼を責めるつもりなど毛頭ない。 「——夜が明けたら、ここを出る」 「出て、どうすんだ?」 「そりゃまあ、デルマリナにもどるっきゃねぇだろうな」 「戻ったら見つかるよ! 俺、殺されちまうじゃねぇか!」  冗談じゃねぇ、とボッズはすぐにでも小屋を出て行こうとする。 「言っとくが、田舎に引っ込んじまったほうがよっぽど目立つぜ。田舎からデルマリナに出てく連中はやまほどいるけど、デルマリナから田舎に引っ込むやつなんて、そうはいねぇだろ」  エリの言葉に振り返り、ボッズは肩をおとしてすごすごと戻ってきた。 「じゃあ、どうしたらいいんだよ……」 「まあ——いつまでも逃げてばっかじゃ、どうしようもねぇってのは確かだな」  ケアルが言っていたように、長い航海に出る船に乗ってしまう、という方法もある。だが、総務会の役員たちに追われているボッズを雇い入れる船主がいるはずはない。 (できるとしたら、ピアズのおっさんぐらいなもんだろうけど——こんなことになっちまって、これ以上おっさんにまた頼るってのもなぁ……)  ぽりぽりと首のうしろを掻きながら、エリは頭をひねった。 (ケアル、おまえならどうする?)  小屋に吹きつけてくる風の唸りに耳を傾けながら、エリはいつしか胸の内でそう訊ねていた。      2  臨時議会が日延べされることになった、との書状が全議員に届けられたのは、臨時議会が開かれる予定日の前夜だった。  そのことはすでに噂として流れており、書状が届いても驚く者はいなかったが、書状を各議員に届けた使者の何人かが、これは噂なんだけど、と声をひそめてその邸の家令たちに耳打ちした話は、人々を驚かせた。  あのピアズ・ダイクンの別邸が、暴漢によって襲われた、というのだ。 「別邸というと、どこの別邸だい?」 「避暑に使っている別邸らしいよ。葡萄づくりの盛んな村にある——」 「で、なんか盗まれたのかね?」 「いや。それがさ、もの盗りのしわざじゃないらしいんだ。留守をあずかってた家令たちは全員、殺されたそうなんだがね。金目のモノは残ってたらしいから」 「留守をあずかってた家令じゃ、たいした人数はいなかったんじゃないかね」 「お邸に四人と、庭のはずれにある小屋に夫婦者の家令が二組いたそうだよ。小屋にいた家令たちも全部、赤ん坊さえ殺されたっていうから、ひどいもんだ」 「そりゃ、妙な話だね」 「妙じゃないよ。あたしゃこの話を聞いて、なるほどなって思ったね」 「なんでだい?」 「ほら、こないだの大評議会で、実はピアズさんがいちばん票を集めたのに、総務会のお歴々が票を操作して当選させなかったってのがバレちまったって話、知ってるだろ」  その話はすでに、デルマリナ中にひろまっていた。憤る者、あきらめる者、反応は様々ではあったが、みな一様に「やはり」とうなずいたものだ。この「やはり」とは、総務会が票を操作したことをさすのではなく、ピアズ・ダイクンがもっとも票を集めたことをさすものである。 「おまけにピアズさん自身が、総務会が票を操作したって告発しただろ。そんなことされて、あの偉ぶった総務会のお歴々が黙ってると思うかい?」 「——おい、ひょっとして……」 「そうだよ。こりゃきっと、あのお偉い方々のピアズさんへの警告だね。こんど自分らにはむかうような真似をしたら、こんなもんじゃすまさねぇぞっていう——」 「莫迦、そんなことでかい声で言うもんじゃねぇよ。総務会のお歴々の耳にでも入ったら、どんな目にあうか……」 「大丈夫だっての。俺なんかが何を言おうが、お偉い方々にゃ痛くも痒くもねぇさ」 「だけどさぁ……」  そんな会話がデルマリナのそこここで交わされた。憶測でしかない話が、やがてもっともらしい真実として語られるようになるまで、大して時間はかからなかった。  人々はピアズ・ダイクンの出方を待ったが、彼は別邸襲撃の一報がもたらされた直後から、人前に姿をあらわすことはなかった。裏から表から、ダイクン邸にはひっきりなしの訪問者があったが、彼はそのだれとも会おうとはしなかったのである。    * * *  デルマリナ中を席捲した噂も、しかしヴィタ・ファリエル邸に滞在中のケアルの耳にはすぐには届かなかった。  最初のころ、ケアルがピアズ邸に戻りたいと言うと、ヴィタ・ファリエルは厳しい顔をして、 「デルマリナがお迎えした客人から舟代をとるなど由々しきこと。総務会の役員をつとめる者として、あやつにそれなりの処罰をせねばなりますまい」  などとモル・モランのことを持ち出し、さりげない脅迫をかけてきた。 「ピアズ・ダイクンが心配しているかもしれぬとお考えでしたら、それについてのご配慮は無用です。私のほうから、お客人は望んで我がファリエル邸に滞在なさっている、と伝えてありますので」  まさに目の前でぴしゃりと扉を閉められたような、ケアルの状況だったのである。  せめて手紙をと、何度か書いては家令の手にはゆだねたが、それがピアズ邸に届いたかどうかはわからない。返事が来ることはなく、おそらく届けられてはいないのだろう、とケアルは推測していたが……。  一日に二回のお茶の時間、三度の食事、就寝前の一杯の酒。これらがファリエル邸では規則正しく、毎日同じ時間に繰り返された。ケアルはヴィタ・ファリエルのそんな時間割に、いちいち付き合わねばならなかった。時間がくると必ず、家令が部屋まで迎えに来るのである。  ケアルに帰りたいと言い出させないためなのか、ヴィタ・ファリエルは常に多弁だった。ただしその話題は、先祖の自慢と、若いころに彼が成功させた大きな商売の話に終始し、正直いってケアルは閉口せずにはいられなかった。  ヴィタ・ファリエルの話題が途切れたのを見計らって、ケアルが攻め方を変えてみたのは、そんな日が三日も続いた頃だった。 「——友人と連絡がとりたいのですが?」  申し出たケアルに、ヴィタ・ファリエルは軽く片眉をあげた。 「御友人というと?」 「ハイランドを出て、共にデルマリナへと来た友人です」  ああ、とヴィタ・ファリエルは得心したようにうなずいた。 「お父上がつけられた、従者ですな」  言われて思わず「違います!」と強い調子で否定すると、ヴィタ・ファリエルは怪訝そうな表情をした。 「エリは、従者じゃないです。おれと同様に父上からデルマリナ行きを命じられた、おれの友人です」 「しかし、確か水夫のようななりをした若者で、そのうえ水夫たちと誼《よし》みを結んでおると聞きましたぞ?」  それのどこが、領主からケアルと同様な使命をたくされた人物なのか、と言いたげな様子だ。そんなふうに見られているのかと、ケアルは唇をかみしめた。  デルマリナに来て、これまでケアルがある程度親しく接した人物は、ピアズとその娘マリナぐらいなものだ。かれらはケアルとエリの待遇に差をつけることなどしなかった。だから、ケアルは気づかなかった。  水夫たちと親しく付き合い、酒場などにも出入りしていたエリは、ずいぶん早くから自分がどう見られているのか、知っていたに違いない。 (ああ、だからエリはあんなことを言い出したんだ……)  他人がどう思おうと、エリはエリなのに。おれの親友で、誰よりも信頼できる相棒——そう、翼以上の相棒だというのに。 「友人、ですから」  重ねてケアルが言うと、ヴィタ・ファリエルは「そんな、むきにならずとも……」とつぶやいて肩をすくめ、 「——では、その�御友人�にも私のほうから、あなたがお元気だとお伝えしておきましょう」  おざなりな口調でそう言った。 「それだけじゃ、だめです。おれがここへ来たとき、あいつ、出かけてたから——」  帰ってケアルがいないのを知り、エリはなんと考えるだろうか。自分があんなことを言ったから、ケアルは顔を合わせるのを避けているんだと思わないだろうか。そうじゃないんだと伝えたい。それには、人任せにことづてをするだけではだめだ。  考え込むケアルに、ヴィタ・ファリエルは隠しもせず大きなため息をついた。 「なんにせよ、いまピアズ・ダイクンに近づくのは、おすすめできませんな。私はなにも理由なく、あなたにここに滞在していただいているわけではない。あなたのためを考え、ここに滞在していただくのが最上だと結論を出したのですよ」 「——なぜですか?」 「あの男は、あちこちで恨みを買っていますからな。先日も別邸が暴漢に襲撃されたと、デルマリナ中の話題となっていますぞ」 「別邸が……襲撃……?」  大きく目をみひらき、ケアルはヴィタ・ファリエルの皺だらけの顔を見直した。 「ピアズさんの別邸が……?」  身を乗り出したケアルに、彼は怪訝そうに眉をしかめてうなずく。とたんにケアルは、手にした磁器のカップを放り出して立ちあがった。 「おれ、帰ります。帰らなきゃ……」 「お待ちなさい!」  ヴイタ・ファリエルが家令に合図し、部屋を出て行こうとするケアルの前に家令が立ちふさがった。ケアルがかれらを払いのけようとすると、今度は左右から駆け寄った別の家令たちに腕を取られた。 「放してくださいっ!」  家令たちに決して放すなと目顔で合図しながら、ヴィタ・ファリエルがケアルの前にまわる。 「聞き分けのない……」 「帰してください、お願いですから!」 「そんな言い方をされては、まるで私があなたを監禁しているようではないですか」 「その通りじゃないですかっ!」  思わず本音が出たケアルに、両側の家令が腕をひねりあげる。肩に走った痛みに顔をしかめ、ケアルはヴィタ・ファリエルをにらみつけた。 「早くっ、帰してください!」 「あなたの安全のためだと、言ったでしょうが。私はデルマリナ市民の代表として、あなたの身の安全をはかる義務がある」 「だったら……! だったら、エリの身の安全も保証してくださいっ!」  エリ? と首をかしげたヴィタ・ファリエルは、すぐに思い当たった顔をしてうなずいた。 「ああ、あなたの�御友人�ですか。彼がなにか?」 「あいつ……別邸にいたんですっ!」  身をふりしぼるようにしてケアルが叫んだとたん、ヴィタ・ファリエルはぎょっとした様子で目をみひらいた。 「な……なんですと……?」 「エリは、ピアズさんの別邸に行っていたんです!」 「なぜまた、そんな別邸などに……。いや、別邸といっても色々ある。ピアズ・ダイクンは確か、別邸を四つ所持しておったはず」  どの別邸だったかと訊ねられ、いったん口を開きかけたケアルだったが、あることに気づいてぐっとおし黙った。  エリがどこにいたのか、言うのはいい。けれど、なぜそんなところにいたのかと問われたら? ボッズという水夫と一緒にいたのだと、知られてしまったら?  ピアズ・ダイクンの別邸に、犯罪者として追われている水夫がいたということも、ハイランドからの正式な使者であるエリが水夫と行動をともにしていたことも、知られてはいけない。特にこの、総務会の一員だというヴィタ・ファリエルには、決して。 「——知りません」  もどかしさに奥歯をぎりぎりと噛みしめながら、ケアルはかぶりをふった。 「まさか、知らぬはずはなかろう?」  ヴィタ・ファリエルが、ケアルに詰め寄る。その様子はしかし、いささが度が過ぎているように見受けられた。先ほどエリのことをケアルの従者だと決めつけ、いくら友人だと言っても鼻先であしらってみせた彼が、エリの身を気にかけているはずもないのに。 「知らないんです、本当に。別邸に行ったとしか、聞いていないので」  繰り返しかぶりをふったケアルを、ヴィタ・ファリエルは検分するように見つめた。 「では、なんのために別邸へ?」  目をそらしては、疑われる。ケアルは昂然と頭をあげ、応えた。 「——あいつの父親は、デルマリナ生まれの船乗りなんです。父親の実家を捜してくれるように、ピアズさんにお願いしていました。その件で、いい情報があると出かけたのだ、と聞いています」 「だったら、あなたにどこへ行くか、告げるはずでしょう? なにしろ�御友人�なんですからな」 「あいつは、おれにはついて来てほしくないと言ったんです。もし父親に、デルマリナに妻や子がいたとしたら、平静でいられる自信がないのだ、と」  嘘が口をついてすらすらと出てくる。 「場所を言えば、心配したおれがあとを追いかけるかもしれない——そう考えたんでしょう。彼はひとりで行ったんです」  しばらくじっとケアルを見つめていたヴィタ・ファリエルだったが、やがて表情の読めない顔でうなずいた。 「わかりました。では、手紙をしたためられるのがよろしいでしょう」 「手紙……?」 「あなたの�御友人�に、無事を確認する手紙です。家令に命じて、ピアズ・ダイクンの邸に届けさせます」  なにがあっても、この邸から出させないつもりらしい。ケアルが渋々うなずくと、ヴィタ・ファリエルは家令に命じて、彼の腕を取っていた手を放させた。 「いいですか、あなたはここにいたほうが安全なのです。それをお忘れなく」  出した手紙の返信が届けられたのは、翌日のことである。  家令が銀の盆に乗せて差し出した手紙は、裏面で封をした赤い蝋《ろう》が割れていて、すでに誰かの手により開封されているのはあきらかだった。そのことに怒りをおぼえつつも、ケアルは手紙を届けてくれた家令に礼をのべ、ひとり窓際で手紙を読んだ。  ピアズに手紙を出したはずだったが、返信はマリナからだった。 『——村の男たちの話では、死体の数は、大人が八人。子供が、赤ちゃんを含めて八人。これって、別邸の留守をあずかる家令とその家族の数なの。あなたのお友達の数は入っていないのよ』  家令のひとりが毎朝、村に赤ん坊の乳をもらいに来るはずが、その日は昼をすぎても来る気配がなく、なにかあったのかもしれないと考えた村の男たちが邸を訪れてみて、暴漢に襲撃されたことがわかったという。 『村のひとたちは、邸につとめる家令とその家族の顔は全員知っています。でも、知らない顔の死体はひとつもなかったそうなの。村には酒場もないし、若い殿方が好んで遊ぶ場所もないわ。だから、襲撃があったとき邸内にいなかったはずはないと思うの』  では、どこへ行ったのだろう? 逃げたのか、それとも連れ去られたのか。 『わたくし、とても不安だわ。街の人々は、お父さまが恨まれているから襲撃されたんだと言っているの。特にお父さまは——』  その続きはしかし、紙の下の部分が切り取られていて、読むことができなかった。開封した者が切り取っただろうことは、容易に想像がついた。 『お父さまは、あなたのお友達の行方を捜させています。でも、村の中はもちろんその周辺もくまなくあたってみたけれど、見知らぬ若者の姿を見たと証言するひとはいないそうなの』  では、やはり何者かに連れ去られたのだろうと、ケアルは考えた。村の地理に詳しいはずもないエリが、誰にも見咎められることなく逃げるのは難しいだろう。 『明日からは、もう少し範囲をひろげて捜させると、お父さまはおっしゃっています。大丈夫、きっと無事だと思うわ。だって、憎まれっ子世にはばかるって言いますもの。わたくしがこれだけ、大っ嫌いって言っているんですもの。きっときっと無事で、そのうち平気な顔をして帰ってくると思うわ』  最後の数行に、ケアルは初めて笑みをこぼした。マリナのいかにも彼女らしい思いやりが心にしみる。手紙を畳んで、ケアルはため息をついた。  それにしてもなぜ、ピアズ自らが返事をしたためてくれなかったのだろうか。あるいは——嫌な想像ではあったが、ピアズの手紙は抜き取られてしまったのかもしれない。これもまた、開封した誰かの手によって。  窓を開けて、ケアルは露台に出た。大運河に面した露台は、潮の匂いのする風がそよそよと吹いてくる。だが視線を感じてそちらへ目をやると、舟着き場に腰をおろした男がじっとケアルを見つめていた。おそらく、ケアルを見張っているのだろう。部屋の扉の外にも家令が夜もはりつき、ケアルが逃げ出さないようにと見張っている。  たぶんおれは、権力者たちの駆け引きの道具にされているのだろう、とケアルは思った。そんなものになるために、デルマリナへ来たわけではないのに。  エリが無事かどうか、確かめたい。いますぐにでもここから抜け出して、エリを捜しに行きたい。けれどもしおれがここを抜け出したら、おれがではなくハイランドが、ヴィタ・ファリエルではなくピアズ・ダイクンについたと看做《みな》されることだろう。おれがライス領主の代行である以上、デルマリナの誰かひとりに肩入れすることは、いまの段階ではできない。  大運河の上を、白い鳥が群れをなして飛んでいく。青空を横切り、建物のむこうへと飛び去っていく鳥たちを、ケアルは手すりを握りしめて見つめた。  故郷にいた頃は、いつだって翼に乗り、エリに会いに行けたのに……。 「エリ、ごめん——」  白い鳥はもう、あんなにも遠い。      3  エリ・タトルがボッズとともにデルマリナ入りしたのは、別邸が襲撃された夜から六日後のことだった。  村や集落を避けて徒歩で北地区から東地区へと移動し、そこから水の運搬船に便乗して川をいっきに下ったのである。  ふたりを船に乗せてくれた水売りの男は、ちょうど前日の朝デルマリナを出発したとのことで、生来のお喋り好きもあってか、いまデルマリナ中に吹き荒れている噂話を語ってくれた。それを聞いてエリは、やはり自分の考えは正しかったのだと確信した。 「デルマリナじゃ、寄ると触るとその噂でもちきりだよ。酒場にゃ、アルテでもねぇくせに、自分が議員になったつもりでまくしたてるやつらがごろごろいるもんなぁ」 「へえ、おもしろそうじゃん」 「おもしろいもんかよ。俺なんかさ、よくまあ誰が聞いてるかわかんねぇとこであんな話ができるもんだって思うよ」 「なんで?」 「だって、ほれ。総務会の誰かの耳に入ったら、まずいだろ。俺なんて、大アルテ相手の商売だから、ヘタすりゃ仕事をまわしてもらえなくなるもんなぁ」 「べつに水運びの仕事って、大アルテ相手と限ったわけじゃねぇんじゃねぇの?」  エリが訊ねると、男は自慢げに胸をはってみせた。 「俺の運ぶ水はなあ、そんじょそこらの水とは違うんだ。わざわざ水源まで行って、汲んでくるからな。だから、よその水より腐るのが遅いってんで、船の飲料水にって買い求めるお客さんが多いんだよ」 「へぇ。じゃあこれも、船に乗せる水なのかよ?」 「ああ。注文を受けて汲んできた、特別な水なんだぜ。注文主の名前は——あんたらが聞いたらきっと、たまげるだろうな」 「なんだよ。もったいぶらずに教えてくれたっていいだろ?」  そこで男は、周囲にはエリたち以外だれもいないのに、わざとらしく声をひそめた。 「ヴィタ・ファリエルさんだ」  一瞬きょとんとしたエリは、ボッズへ視線を向け、 「ヴィタ・ファリエルって、あの総務会のヴィタ・ファリエルか?」  ああ、とうなずいてみせたボッズは、そのまま水売りの男へ向き直り、 「だけど、確かヴィタ・ファリエルさんとこの船はいつも、北地区の源泉から水を運ばせてるって聞いたけどな」  言われて嫌そうな顔をした水売りとは逆に、エリは思わず身を乗り出す。 「へえ、そうなのか」 「北地区の源泉から水を運ぶ水売りは、デルマリナじゃいちばん大きな商いをする水売りなんだ。ヴィタ・ファリエルさんだけじゃなくて、総務会の全員がいつもそこで水を買ってるって話だぜ」 「ふーん。まあ、でかいとこのほうが安心っちゃー安心だもんな」  とんでもない、と口を出したのは水売りの男だ。 「北地区を縄張にしてる水売りは、デルマリナの水売りの中で唯一、川の通行税を免除されてんだ。免除してもらう代わりに、総務会の皆さんには他よりずっと安く水を売る——そういうずるい商売してるんだよ」 「だったら余計に、変じゃねぇのか? だってさ、わざわざ安くねぇとこから水を買うこたねぇわけだろ?」 「俺の運ぶ水は、上物なんだ。この商売を始めてからずっと、それだけを売りにしてるんだ。ヴィタ・ファリエルさんも、それをわかってくれたんだよ」  男は心底そう信じこんでいるようで、そう言いながら愛しそうに水を詰めた樽を撫でている。エリとボッズは顔を見合わせ、それ以上このことについて述べるのは控えようとうなずきあった。  ふたりが船を降りたのは、大運河に入る手前でだった。エリは礼にと金を渡そうとしたが、水売りはそれを断った。 「舟代が欲しくて、あんたらを乗せたわけじゃねぇんだ」  とはなるほど、ひたすら水の品質にこだわる水売りらしい言葉だ、とエリは思ったのだった。  あたりが暗くなるのを待って、エリとボッズは動き始めた。  たった七日デルマリナを留守にしていただけだというのに、市内の雰囲気がえらく変わってしまった気がする。 「なんか、変だと思わねぇか?」  だがボッズは、市内の雰囲気を感じ取る余裕などない様子だ。ひたすら周囲を気にして視線をきょろきょろさせ、大きな体躯を縮こめて、さあと首をふるばかりだった。  まずは、すでに別邸が襲撃された知らせを受けて心配しているだろうケアルに、とりあえず無事だと伝えたいとエリは考えた。だがボッズは、ダイクン邸の周囲には自分を捜している者が見張っているかもしれないと、一緒に行くことを拒んだ。  仕方なくエリは、ハイランドからデルマリナまでの航海で生死をともにした——というよりも、沈む船からエリの手で助けあげ、それ以来、親兄弟よりも信頼できる仲間となった水夫のひとりに、理由を話してひとまずボッズを匿ってもらうことにした。それでもボッズは不安な表情を隠し切れない様子だったが、すぐに戻ると言いくるめ、その足でダイクン邸へと向かったのだった。    * * *  夜陰にまぎれて、そっと邸内に忍び込んだつもりのエリだったが、主階に入って十歩も進まないうちに、邸内を巡回している家令に見つかってしまった。  別邸が襲撃をうけてから、まだ間もない。用心のため、家令たちが昼も夜も交替で邸内を巡回しているのだという。  すぐさま主人のピアズのもとへ報告が行き、エリは書斎へと案内された。 「よくまあ、無事で……」  エリの顔を見るなり、ピアズの第一声がそれだった。彼なりに心配してくれたのだろうと思うと、ケアルにだけこっそり無事を伝えようとした自分が少し恥ずかしくなった。 「怪我もねぇし、無事だって、ほんとはできるだけ早く伝えたかったんだけどさ。どいつが敵でどいつが味方か、わかんなかったから……悪かったな」 「いや。方法はともかくとして、いい判断だよ」 「とりあえず、オレもボッズも無事だから。でも、おっさんの別邸の家令には悪いことしたと思ってる」  オレたちの巻き添えにしちまって、とエリが言うと、ピアズは感心したように目を細めた。 「ある程度の情報は得ているようだね?」 「情報なんて、上等なもんじゃねぇよ。噂話を聞いたのと、オレが色々考えてそうじゃねぇかって思っただけだからな」 「噂話も、立派な情報だよ。ただし聞く側に偏見がなく、冷静に判断できる頭脳があればの話だが」  ところで——とピアズは正面からエリを見つめた。 「きみはこれから、どうするつもりだ?」  眼帯をしていないほうの目だけではなく、眼帯に隠れたほうの目でも見つめられている気分になる。  隻眼なのに、隻眼とは思えない。それどころか、見えている片目で表にあらわれたものを、見えていない片目でこちらの裏にあるものを見透かしているのではないかとさえ思えるのだ。 「オレがデルマリナに戻ってきたのは、田舎にいるよか目立たないと思ったからだよ。別に、またあんたに頼ってなんとかしてもらおうなんて考えて戻ってきたわけじゃねぇ」 「なるほど。木を隠すには森に、と言うからね。その判断も間違ってはいないだろう。けれど、この先が問題だ」  そうなんだよな、とエリは金の髪をくしゃくしゃにかき回した。 「正直に言っちまえば、いい案があるわけじゃねぇんだ。とりあえずまあ、近々出航する船にボッズのやつを乗せるのがいいかな、とは思ってんだけど——」 「きみは知らないかもしれないが、残念ながら総務会に手配されている水夫を雇い入れるような船主は、まずいないだろうね」  話にならないな、と言い切ったピアズに、エリはにんまり笑ってみせた。 「ところがさ。ちょっと気になる船があるんだよな」 「気になる船……?」 「総務会に、ヴィタ・ファリエルって爺さんいるだろ?」  爺さんか、とピアズは苦笑した。 「だって街の連中がみんな、総務会の頑固爺いって言ってんぜ」 「ああ。きみが噂話に詳しいのは、よくわかった。それで?」 「——その爺さんが、いつも総務会のやつらが水を格安で買い入れてる水売りとは違う水売りと、契約を交わしたそうなんだ」  エリの言葉にピアズは眉根を寄せた。 「わざわざ高くつく水を買うんだぜ。それってぜってぇなんかある、って思えるだろ。オレが考えるに、他の総務会の仲間にゃ隠しておきたいことがあるに違いない、って思うんだ」 「それで?」 「総務会のお偉がたに対抗できんのは、やっぱ総務会のお偉がたじゃん? そもそもボッズを捜してんのは、エルバ・リーアっておっさんであって、ヴィタ・ファリエルって爺さんじゃない。ボッズはそう言ってる。したら、ボッズがその爺さんの船に乗っても、総務会の仲間にゃ隠してる船だからさ、ボッズをエルバ・リーアに突き出したりはできねぇだろ」  これでどうだい、とエリは胸を張ってピアズを見返す。けれどもピアズは少しも感心した様子はなく、ゆっくりと立ちあがった。 「たったそれだけの情報から、そこまで考えたのは素晴しいと、とりあえずは褒めておこう。その褒美に、きみにはひとつ私から情報を与えてあげよう」 「——なんだよ」 「きみの親友、ケアル・ライスは現在、ヴィタ・ファリエル邸にいる」  なんだって? とエリは静かに自分を見つめるピアズに詰め寄った。 「ヴィタ・ファリエルは、蕪売りのモルという男の商売を保証することを条件に、きみの親友を自邸に軟禁しているのだ」 「どういうことだよ、そりゃ」 「さあね。私としても、きみの親友が自ら私に助けを求めてこない以上、へたには動けないんだよ。ヴィタ・ファリエルは、彼が望んで自邸に滞在していると公言しているのでね」  冷静に語るピアズに、エリは身を乗り出して机に拳をたたきつけた。 「あんたいま、ケアルは軟禁されてるって言ったじゃねぇか!」  そんな状態で、自ら助けを求められるはずがないのはあきらかだ。 「それがわかってて、なんで放っとくんだよっ!」  だいたい蕪売りのモルとかいう男は、うさんくさい奴だった。港までの舟代に、ケアルからナイフひとつまきあげるような男だ。いや、まきあげたわけではなかったかもしれないが、エリにしてみれば、そのあとの印象が最悪だった。ふたりがピアズの邸に滞在していると知ると、ナイフは返すからピアズに紹介してくれと言い出したのだ。 「ケアルだって、きっと蕪売りのおっさんなんかにゃ、義理なんか感じちゃいねぇよ。きっと、脅されてるか力づくかのどっちかに違いねぇ」  言い切ったものの、ひとの好いケアルのことだ、蕪売りのモルは港まで舟に乗せてくれたというそれだけで、ある程度の恩は感じているかもしれない、とも思えた。 「あんたが手出しできねぇなら、オレがあいつを——」  勢いこんで申し出たエリに、ピアズは軽く片手をあげて制した。 「その必要はないよ。私もまあ、いつまでも手をこまねいているつもりはないからね。彼については、私に任せてもらいたい」  だからエリのほうはエリで解決しろ、とどうやら言いたいらしい。 「誰が味方で、誰が敵なのか、じっくり見極めるんだ。あるいは、誰が味方になってくれそうか、味方のはずが敵になってしまう相手ではないのか、疑ってかかることも時には必要だからね」  ピアズはそう告げると、この話題はここで打ち切りとばかりにエリへ視線を寄越し、机の上から一枚の紙片を取りあげた。 「もうひとつ、きみに情報がある」 「こんどは何だよ」 「きみの父親の実家が判明した。住所はここに書いてある。訪れるか、この紙を破り捨てるかは、きみ自身が判断しなさい」  差し出された紙片を、エリは手を出さずにじっと見おろした。そんなことなどすっかり忘れていた、というのが実際のところだ。忘れたままにしておいてくれれば良かったのに、とは勝手な言いぐさではあるが、エリは紙片を受け取るのに躊躇した。  受け取れば必ず自分は、父の実家を訪ねるに違いない、という確信がある。エリの幼いころからの「デルマリナへ行きたい」という思いは、父の故郷がデルマリナであることが根幹にあった。だが、父が暮らしていた家を訪れることは——怖いと思うのだ。  父に妻子がいたらどうしようか。父の親兄弟に、彼が異郷の女に産ませた子など認めないと言われたらどうしようか。そんな想像しやすい怖さとともに、もっと別の、禁忌たる場所へ足を踏み入れるにも似た怖れがあり、その感覚は身をすくませてしまうほど強いものだった。 「どうした?」  苦笑を浮かべたピアズに問われ、エリはひったくるようにして紙片を受け取った。 「——ありがと」  そっぽを向いて礼を述べたエリに、ピアズがまた苦笑した気配があった。紙片をくしゃくしゃにして握り込み、エリは顔をそむけたまま踵をかえす。 「どこへ行くつもりだ?」  部屋を出ていこうとするエリに、ピアズが問うた。 「あんたにゃ、関係ねぇだろ」  エリが舌を突き出して返し、そのまま廊下に出ると、扉ごしに押し殺した笑い声が聞こえてきた。 「全く。食えねぇおっさんだぜ……」    * * *  父親の名は、アル・タトル。だがデルマリナでは、アルロモ・カボットが彼の本名であったらしい。だが、アルロモ・カボットと口に出して言ってみても、それが父の名だという気が少しもしない。  エリの父が死んだのは、彼が五歳のときだった。記憶ももうおぼろで、エリが覚えているのは父の背中の大きさと、手のゴツゴツとした節の感触——それから、死ぬ間際に朦朧とした意識の中でつぶやいたひとこと、これだけは忘れられない。 『帰りたい……』  その声は現在でもはっきりと、たったいま聞いたことのように蘇《よみがえ》る。けれどその当時、エリは母親に父の最後の言葉を伝えることはできなかった。身を絞るように泣く母にそれを伝えたら、母が壊れてしまうような気がしたのだ。  あれから約十五年。父の最後の言葉は誰に告げることもなく、エリの心にずっと留められてきた。デルマリナへ向かうと決まった日に、エリは初めて親友のケアルにそれを告白したのである。  そして、告白して初めて、自覚したことがあった。オレの身体と心の半分は、まだ見たこともない父ちゃんの故郷デルマリナにあるんだ、と。だからこそ、デルマリナへ行きたいと思った。この目でデルマリナを見て、この足でデルマリナの地に立ってみたかったのだ。決して父の代わりなどではなく、自分の意志で。身体と心の半分が望むままに。  いよいよ船に乗り込んだとき、エリは待ち望んだその時がきたと思った。船乗りだった父の血をひくオレは、島でこそ変わり者呼ばわりされていたが、船ではきっと違和感をおぼえることなく、ここが自分の本来あるべき場だと確信をもつことができるだろうと。  結果的には水夫たちに受け入れられ、信頼できる仲間もできたが——けれどそれは、エリがデルマリナの船乗りだった父の息子だから、という理由ではなかった。ともに協力し合い、助け合って死線を乗り越えた実績によるものだった。  デルマリナに到着したときも、頭ではこここそ身体と心の半分がずっと望んでいた故郷なのだとわかっていても、気持ちがそれについていけなかった。ちょうどアルロモ・カボットが父の名であるのに、どうしても父の名とは思えないのと同じだった。 「でも——父ちゃんの親とか兄弟に会えば、変わるかな……」  父親譲りの明るい金髪と、父にそっくりだという紫水晶の目。父の肉親にはきっと、こんな髪と目を持つ者がいるに違いない。それを見れば、オレはこのひとたちの血縁なんだと感じ、アルロモ・カボットの名をもつ男もアル・タトルという男も同じ人間、オレの父なのだと思えるだろう。  ダイクン邸を出たエリは石畳に座りこみ、握りしめてくしゃくしゃになった紙片をそっと広げると、皺になった箇所を丁寧に丹念にのばしたのだった。      4  その朝、ファリエル邸にふたりの使者が訪れた。  ちょうどケアルはヴィタ・ファリエルのお茶に付き合っている最中で、そこへ銀の盆を掲げた家令がふたり入ってきたのだ。銀の盆にはそれぞれ、ケアルとヴィタ・ファリエルに宛てた手紙が乗せられていた。  銀の盆を差し出されると、もう何度か嗅ぎ慣れた菫《すみれ》の匂いがした。マリナ・ダイクンからの手紙だ。いちど彼女から返信が来て以来、何度か手紙を交わしているのだ。けれど、彼女からの手紙はつい昨夕に届いたばかりで、まだケアルは返事を出してはいない。  不審に思いつつ、手紙を受け取った。封蝋は毎度のごとく、割れている。最初はそれを腹立たしく思ったものの、今はもう、またかとしか感じられなくなった。  とはいえとりあえず今回は、切り取られた箇所はなさそうだ。 『ケアル、昨夜あなたの親友がやっと帰ってきたわ』  挨拶もぬきで、手紙はいきなりそう始まっていた。 『と言っても、わたくしはお父さまから今朝そう聞いただけなの。顔は見てないわ。だって顔を見ようにも、お父さまと会っただけでまたどこかへ行ってしまって、今は邸にはいないんですもの』  勝手にもほどがあるわ、とエリへの容赦ない罵詈雑言《ばりぞうごん》がしばらく続く。 『でもとりあえず、あなたの親友は無事よ。怪我ひとつなくぴんぴんしていたと、お父さまは笑っていらっしゃったわ。わたくしがその場にいたらきっと、張り倒してさしあげたと思うのだけど』  なるほど彼女ならやりそうだ、と苦笑しながら顔をあげたケアルは、卓をはさんだむこうで手紙を読むヴィタ・ファリエルの表情に軽く目をみひらいた。  手紙を読むというより、睨みつけている表情だった。皺の多い顔にみるみる血がのぼり、赤くなってゆく。手紙を持つ手は細かく震え、ぎりぎりと噛みしめる奥歯の軋み音さえ聞こえてきそうだ。  ケアルが見ている間に二度、手紙を読み返した彼は、まるで気を静めようとするかのようにひどく丁寧に手紙を折り畳んだ。そして指で合図して給仕に新しくお茶をいれなおさせると、いつものように香りを楽しんだりなどせず、いっきにお茶を飲みほした。 「——で、ピアズ・ダイクンは娘になんと言って寄越させたんです?」  器を置いたヴィタ・ファリエルがいきなり切り出し、ケアルは首を傾げた。 「その手紙ですよ。ピアズ・ダイクンが娘に命じてしたためさせた手紙でしょう?」 「いえ、違います」  あわてて首をふったケアルに、ヴィタ・ファリエルは皮肉な笑いを浮かべる。 「ごまかさんでもいい。あの男は、思っていた以上に食えん男だ」  言いながら彼は、先ほど丁寧に折り畳んだ手紙を軽く振ってみせた。 「これが何かわかりますかな? なんと、臨時評議会の招集状ですぞ。臨時評議会を開いたり中止したりするには、総務会の三人以上の合意が必要だ。ほんの先日、わしを含めて四人の合意で中止が決定したばかりだというのに、今日にはもうこの通り」  いかにもピアズが何かをやったといわんばかりの言い方だ。  総務会三人以上の合意が必要なものを、総務会に属していないピアズがどうこうできるものではないだろうに。そう考えたことが面《おもて》に出たのか、ヴイタ・ファリエルはじろりとケアルをにらむと、卓上に手紙を滑らせて寄越した。 「御覧なさい。臨時議会の議題が『先日おこなわれた開票作業における総務会の不正について』ときた。こんな議題で得をする者は、あの成り上がり者のピアズ・ダイクンをおいて他はない。だのに、総務会の三人が臨時議会を開くことに合意したというのだぞ」  苛々と卓上を叩くヴィタ・ファリエルを見やりながら、ケアルは寄越された手紙を開いてみた。文面には確かにそう記してある。  ということはつまり、不正があったと総務会五人中三人までが認めた、ということではないだろうか。 「あれのどこが不正だ。ピアズ・ダイクンにしても、もともと金をばらまいて買った票のくせに、よくも正義漢ぶれるものだ」  その言葉に、ケアルは目をみひらいた。 「票を……買うんですか……?」  そんなことも知らないのかといわんばかりに、ヴィタ・ファリエルは鼻先で笑った。 「わしなどは、日頃から大アルテはもちろん小アルテの連中からの信もあついですからな。票を買ったりせんでも、必ず総務会に選ばれる。だが、ピアズ・ダイクンのような成り上がり者は、そうはいかん」  ほんとうにそうなのだろうか、とケアルは内心で首をかしげた。市場の支配人や蕪売りのモルに対するやりかたを見た限りでは、信があついようにはとても思えない。ヴィタ・ファリエルに票を投じる者は、彼に睨まれたくないから、商売に支障があるから、仕方なくそうするのではないだろうか。 「——でも、総務会の皆さんがそう認めたということはやはり……」 「違う!」  ぱんっ、と手のひらが卓にたたきつけられた。白い茶器が、カタカタと音をたてる。 「あやつらは、ピアズ・ダイクンに言いくるめられたんだ。あの成り上がり者は、阿呆どもに人気があるからな」 「阿呆ども……?」 「金もないくせに、あれが欲しいこれが欲しいと望みばかり高いやつらのことだ。いつか自分もピアズ・ダイクンになれると思っている、阿呆どもだ」  吐き捨てるように言うヴィタ・ファリエルに、ケアルは表情を強張らせた。じわじわと腹の奥から怒りがわいてくるのがわかる。  ピアズさんは俺たちの希望なんだ、と言った蕪売りのモルの顔が脳裏をよぎる。 「阿呆どもが何を言おうが、放っておけばいいのだ。どうせ口ばかりで何もできない連中なのだからな」  ケアルの怒りなど気づかぬ様子で、ヴィタ・ファリエルは苛立たしげに言う。 「阿呆どもがなにをしてくれるというんだ。わしの懐を狙うか、せめておこぼれに与《あずか》ろうとする者ばかりだ」  その言葉に、頭にカッと血がのぼった。 「大評議会というのは、デルマリナのあれこれを決める機関だと聞きました。七万人の市民のための評議会、総務会なんじゃないですか?」  気がつくと、身を乗り出すようにしてそう訊ねていた。  父は、領民の漁場を守ることは領主としての勤めだと言った。それはつまり、領民の利益を守ることだ。大評議会が千人で領主と同じ役割をするならば、議員たちは七万人市民の利益を守ってこそ議員たるのではないだろうか。 「——きみは、デルマリナがわかっていないようだな」  返ってきた言葉に、ケアルは「えっ?」と聞き直した。 「どうやらきみは、わしが自分の利益を得ることしか考えていない、と思っているようだが」 「その通りじゃないんですか?」  嫌味をこめて返すと、ヴィタ・ファリエルはゆっくりと立ちあがり、露台に通じる窓を大きく開け放った。  大運河に面した窓である。開けたとたん、街のざわめきや水の匂い、船頭たちの声などが流れ込んで来た。 「我がファリエル家は、デルマリナでも五指に入る商家だ。ファリエル家の名を冠して働く者の数は、五百人を超える。これに、水夫や荷揚げ時に雇い入れられる者、ファリエル家から発注をうけて働く者などを入れると、およそ二千人という数になるのだよ。きみはこの意味がわかるかね?」 「——つまり、ファリエル家の当主の肩には市民二千人の重みがかかっている、と?」 「そうだ。きみは思ったより、頭がいいらしいな」  目を細めて言われたが、少しも褒められた気はしなかった。 「わしが商売にひとつ失敗すれば、二千人のうち何人かが職を失う。わしが利益を得ることに奔走《ほんそう》しなければ、二千人、いやその家族を入れれば一万になろうとする人々の暮らしが苦しくなる。わしには一万人の暮らしを守る責任があるのだよ」  思わずケアルは「一万人……」とつぶやいていた。一万といえば、ライス領に暮らす人々と同じ数である。  領主である父は、自分には領民の利益を守る義務があるのだと言った。それは、上に住む三千人だけではない、島人を含めた�すべて�の領民の利益を、だ。 (一万人という数に惑わされてはだめだ)  ケアルは自分に言い聞かせた。  つまりヴィタ・ファリエルは、デルマリナ市民七万人の代表機関、人民評議会の最高執行機関「総務会」に名をつらねていながら、一万人の市民に対する責任しか負うつもりはないと言い切ったことになる。 「デルマリナの大評議会とは、そういうものなのだよ。議員それぞれが、数人、数十人、数百人、数千人の暮らしを背負って、議会に出席するのだ」  どこか誇らしげにもみえる表情でヴィタ・ファリエルはそう言うと、開け放った窓をゆっくりと閉めた。だがケアルには彼の言葉が、中身のないうつろなものに感じられてならなかった。    * * *  その夜、ケアルは大運河に面した露台に出てデルマリナの街をながめていた。  舟の往来も途絶えた運河の黒い水面には、それぞれの邸の灯りが映り、ゆらゆらと揺れている。潮の匂いと滞った水の匂いに混じって、細い水路の奥のほうからは、遅い夕食の煮込み料理の匂いがする。 「七万人の市民を抱える都市——」  口に出してつぶやいても、少しも実感がわかない。 「よお、元気そうじゃん?」  ふいに声がして、ケアルは飛びあがった。聞き慣れた、懐かしい声だ。露台から身を乗り出し、声の主を捜す。 「どこ見てんだよ。こっちだっての」  舟着き場にならぶ舟のひとつに、明るい金髪の青年が立っていた。 「——エリ……!」 「そっち行っていいか?」  問われてケアルがうなずくのも待たず、エリはぽーんと舟を蹴って石段に飛び移ると、ケアルが立つ露台のすぐ横の柱を器用にのぼりはじめた。船上で、帆柱をのぼる水夫さながらの動作だ。  またたく間に露台の手すりに足をかけ、ケアルの横へ飛び移った。 「エリ……、よく無事で……」  わずか十日たらず離れていただけなのに、早朝エリの乗る舟を見送ったことが遠い昔のように感じられる。  そっと手をのばし、肩に触れ、親友の顔をまじまじと見つめたケアルは、涙が出そうになってエリの身体をぎゅっと抱きしめた。 「よかった。ほんとに、よかった」  マリナからの手紙でエリの無事は知っていたものの、こうして自分の目で親友を見てやっと心からほっとできた。 「オレのほうも、まあ色々とたいへんだったけどさ。おまえもなんか、妙なことになったみたいだな」 「うん。でも、おれは別に危ないことなんかはなかったから」  そうか、と笑ってエリがうなずく。 「いま、どこにいるんだ? なんか、ピアズさんの邸にはいないって聞いたけど」 「おいおい、こんなとこにいるくせして、けっこう情報早いじゃねぇか」 「マリナさんが手紙で教えてくれたんだ」 「へえ。あの嬢ちゃん、やるなぁ」  意味ありげににやにや笑われて、そんなんじゃないよとあわてて首をふる。 「——それより、あそこに見張りがいたと思ったけど……?」 「ああ、舟着き場にひとりいたぜ」  ケアルの問いに、エリはこともなげに応えて舟着き場を指さした。 「酒をひと壺、差し入れてやったんだ。したら、あそこで寝こけてやんの」  くすくすと笑いをもらすエリにつられて、今度はケアルも一緒に笑った。  あの日、夜明け前に別れて以来、こんなふうにふたり並んで笑いあえる時がふたたびこようとは思わなかった。そう考えると、いまこの瞬間がひどく貴重なもの、愛しいものに感じられてならなくなる。  ふたりは自然と、並んで露台の手すりにもたれかかり、運河のむこうへ目をやった。しばらくの間、言葉もなく夜の街をながめていたが、やがてエリがぽつりとつぶやいた。 「オレ……今日、父ちゃんの家族に会ってきたんだ」  少し沈んだ声に、ケアルははっとして親友の横顔を見つめた。 「デルマリナの北はずれにある集落でさ。集落全部が、漁師やってるとこなんだ。なんか島と同じなんだよ。浜には網をつくろってるひとがいて、家の裏じゃ女たちが魚を干しててさ」 「島が懐かしい?」 「いや、そんなんじゃなくてさ」  ゆっくりとエリはかぶりをふる。 「その集落で船乗りになったのって、父ちゃんだけなんだって。みんな親のあと継いで漁師になるのに、父ちゃんだけ船乗りになるんだって集落を出て——でも結局、あの島で死んじまったんだよな。生まれ育った集落と同じような島でさ」  なんか辛いよなとつぶやいて、エリは手すりに置いた腕に顔を埋めた。  なにも言えなかった。なにか声をかけてやりたいのに、言葉が出てこない。  しばらく腕の間に顔を埋めていたエリは、やがて大きくため息をつくと顔をあげ、くるりと身を返してケアルに向き直った。 「オレ思ったんだけどさ。父ちゃん、船乗りになりたいって言って、生まれた集落じゃすっかり変人扱いされて、仲間じゃねぇとか思われてさ。そんで、島に流れ着いて——やっぱり、よそ者だって言われたんだよな。仲間じゃねぇって思われてさ」  ケアルはうなずくこともできず、エリの顔を見返した。 「おんなじなのな、オレも。これ言ったら、おまえ怒るかもだけど。オレ、島を故郷だなんて思ったことなんか、いっぺんもねぇんだ。デルマリナへ来て、父ちゃんの生まれたとこ来て、ここが故郷だって思えるかっていえば、それも違うんだ」 「——でも、島にはエリの母上がいるじゃないか?」  ためらいがちにそう言うと、エリは泣きそうな目をして苦笑した。 「うん……そうだな。母ちゃんがいる。島は母ちゃんの故郷だもんな」 「エリ——」 「ごめん。オレなんか、変だ。変なことくっちゃべってるって自覚あるんだけどさ、なんか止まんなくって……」  顔をしかめて、がりがりと金髪をかきまわす。視線が揺れ、どこか遠くをながめているような目つきをしたエリは、ふいに「あ、そうだ」と明るい声をあげた。 「そういや、父ちゃんの親父と兄貴に会ったんだけどさ。これが、オレとおんなじ金髪なんだ。目の色はちょい違ったけどな」 「顔も似てた?」 「どうだろ。オレ、父ちゃんの顔なんかおぼえてねぇからなぁ」 「そうじゃなくて。エリに顔が似てたのかって訊いたんだよ」  オレ? と目を丸くして、エリは自分の顔を撫でた。 「うーん、どうかなぁ。自分の顔なんか、そうまじまじ見ちゃいねぇもんなぁ」  よくわかんねぇやと言うエリに、ケアルは笑って、そうだねとうなずく。 「んなこと言うケアルこそ、おまえ最近けっこう、親父さんに似てきたんじゃねぇ?」 「——そうかな?」  今度はケアルが自分の顔を撫でる。 「うん。なんか、責任感にもえる男の顔になってきたって感じだぜ」  茶化すような言い方だったが、その目は誠実な色をたたえていた。 「まあ、もうガキのまんまじゃいられねぇもんな。オレも、おまえもさ」 「ああ……そうだな」 「おまえがこう、翼で空を飛んでてさ。オレが浜からそれを見あげてて……そんなことしてた日が、つい四ヶ月ぐらい前だったなんて思えねぇよな」  こんな遠くまできてしまった、という思いはケアルにもあった。それはハイランドからデルマリナまでの距離ばかりではない。 「——おれはエリに、謝らなければならないことがあるんだ」 「なんだよ、急に」  意を決して言い出したケアルに、エリがきょとんと首をかしげる。 「別邸が襲撃されたって聞いたのに、おれはなにもできなかった。エリがその別邸にいたんだって知ったあとさえも、なにもできなかった」 「んなの、仕方ねぇじゃん。おまえ、ここで見張りつけられて、閉じ込められてたようなもんだったんだし」  違うよ、とケアルはかぶりをふった。 「抜け出そうと思えば、抜け出すことはできた。さっきエリがやったみたいにね」  言って、見張りが眠りこけているだろう舟着き場を指さす。 「やろうと思えば、抜け出してエリを捜すことぐらいできたんだ」  けれど、しなかった。親友だと口では言いながら、親友だという言葉にしがみつきながら、ケアルはエリではなく�責任�のほうを選んだのだ。  おれがファリエル邸を抜け出せば、ライス領はヴィタ・ファリエルと手を切り、ピアズ・ダイクンと手を結んだことになってしまう。領主の代行、ライス領の代表であるとは、つまりはそういった責任を負うことだ。 「ん……よくわかんねぇけど。ケアルにはケアルの、やんなきゃなんねぇことがあったんだろ?」  難しいことはわかんねぇけどさ、と言ってエリは金髪の頭をかきまわした。 「それ言ったらオレだって、おまえがこんな厄介なことになってる時に、なんにもできなかったわけだし」 「でも、エリの場合は——」  言いかけたケアルの前に、エリはずいっと手のひらを突き出した。 「そりゃ、言いっこなしだって。オレもおまえも同じ、お互いのことより優先しなきゃなんねぇことがあったんだってことで、ちゃらにしねぇか?」 「ちゃら……?」 「相身《あいみ》互《たが》いっての? そういうの。オレもおまえもふたりべったりくっついてなきゃ一人前のことできねぇなんて、そんなのいつまでもガキのまんまじゃん」 「子供のままではいられない?」 「ああ。オレ、ケアルのことすげぇと思うよ。領主さまの代行だって、自覚もって責任もって——それってもう、ガキの行動じゃねぇもん。一人前のおとなってな、そういうもんじゃねぇのかな」  エリ、とつぶやいてケアルは唇をかみしめた。エリはわかってくれた。そのことが、こんなにも嬉しい。 「おいおい。一人前のおとなが、泣きべそかくんじゃねぇっての」 「泣いてなんかないよ」  いつしか建物の灯りはまばらになり、露台の前の運河には月が、にじんだように揺れながら映っている。風向きが変わったのか、先ほどよりも潮の匂いが強くなった。 「じゃあオレ、戻るな」  そう告げてエリが、身軽な動作で露台の手すりにのぼった。 「戻るって、どこへ?」  あわててケアルは訊ねる。 [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_185.jpg)入る] 「言っておくけど、妙なとこに出入りしたらダメだぞ。エリだって一人前のおとなで、ライス領から派遣されたちゃんとした使者なんだから」 「わかってるっての」  本当にわかっているのか、エリは笑みを浮かべ、胸をたたいてみせた。 「ちゃんとピアズさんの邸に戻るんだよ、いいね?」 「おまえなぁ、それが一人前のおとなに向かって言うことかよ」  肩をすくめるエリに、ケアルは「そうだね」と苦笑した。 「んじゃ、あんまし無茶すんじゃねぇぞ」  茶化すように、エリが言う。 「それはこっちの台詞だよ、エリ」  ケアルが返すと、エリは喉の奥を鳴らして笑った。 「んじゃ、な」  手すりから柱へと飛び移る。するすると降りていくエリを、ケアルは手すりから身を乗り出して見つめた。  柱から飛び下り、足どりも軽く舟着き場へと向かうエリの影が、石畳の上に長くのびている。 「——エリ!」  呼びかけたケアルに、親友は背中を向けたまま片手をあげて大きく振った。  月明かりに溶けていくような、このときのエリのうしろ姿を、ケアルはその後、ハイランドへ帰り息子を胸に抱く歳になっても、死の淵に到るその瞬間まで、忘れることができなかったのである。      5  その日の議会は、今回の議長であるエルバ・リーアが開会を宣言する前からすでに波乱の兆しをみせていた。大評議の間に入ったピアズ・ダイクンがあろうことか、総務会の役員たちが座るすぐうしろの席についたからである。  前回の議会までそこに座っていた大アルテ議員は別の席へ移動しており、前回ピアズが座っていた席には別の大アルテ議員がなにごともなかったかのように座っていた。注意深く見れば、大アルテ議員たちの席順が微妙に少しずつ変わっているのがわかる。  その異変に大多数の議員たちは驚いたが、おそらく誰よりも驚いたのは、開会直前に数人の取り巻きを引き連れて議場へ入ってきたヴィタ・ファリエルに違いない。 「ピアズさんがすぐ後ろに座っているのを見て、墓場で幽霊に出くわしたような顔をしていたそうだよ」  とはその後、広く巷間で噂された話だ。  険しい顔で席についたヴィタ・ファリエルは、総務会の仲間と挨拶を交わすこともなく、議長席のエルバ・リーアとは決して視線を合わせようとしなかった。だが、議会がどんなふうに流れるかは、おおかたのところ予想はしていたようだ。  開会を宣言したエルバ・リーアは、最初に前回の開票に不手際のあったことを議員全体へ向け謝罪し、投票のやりなおしを提案したのである。これには大・小のアルテ関係なく、議員たちは一様に驚いた。けれどヴィタ・ファリエルはざわめく議員たちに、ちらりと渋面を向けただけで、何も語らなかった。  総務会が自らの非を認めるなど、議会の歴史上類を見なかったことである。議員歴六十年という小アルテのある老爺は、帰宅後、息子や孫たちを集め、自ら隠居することを申し出たという。 「わしの時代は終わったようじゃ」  そう語った老爺の言葉は、やはり巷間で、今回の臨時議会の意味を的確にあらわす話として取沙汰されたのだった。  投票のやりなおしは議員たちの賛成を得て、すみやかに実行された。ただし今回、開票は公正であることを明らかにするために、議員たちの目前で行なわれた。  その結果、最も票を集めたのはピアズ・ダイクン、次点がエルバ・リーア、少し離れてヴィタ・ファリエル。他に、これまで総務会の一員であった議員がふたり当選し、やはり総務会役員だった残るひとりは、わずか十数票しか得られず、落選したのである。  ピアズ・ダイクンが小アルテから大アルテになって、わずか一年半。このときも数十年ぶり三人目の人物と、デルマリナ中で大きく騒がれたものだが、それも今回に比べればたいしたことはなかった。  小アルテから大アルテへ、そしてわずか一年半で総務会の一員にまでのぼり詰めたピアズ・ダイクンは、アルテに属さない市民たちばかりではなく、大アルテ小アルテの商人たちにとっても立志伝中の人物、あるいは英雄と目されるようになったのである。    * * *  閉会が宣言されると、ピアズのもとに議員たちが集まり、口々に祝辞を述べた。ピアズはにこやかにそれらを受け、やがて議長席から降りてきたエルバ・リーアと握手を交わしあった。これで議員たちは、ピアズがエルバ・リーアと手を結んだことを知ることとなった。  エルバ・リーアと連れだって議場を出たピアズは、まだ大勢の議員たちが残る広場に、取り巻きたちに囲まれたヴィタ・ファリエルを見つけて、歩み寄った。近づくピアズに気づいたヴィタ・ファリエルは、不快げに顔を歪めたが、避けるつもりはないようだ。衆目を集めるここでピアズに背を向けては、あとで「ヴィタ・ファリエルはピアズ・ダイクンから逃げ出した」と噂されるかもしれず、彼の高い自尊心がそれを許さなかったのかもしれない。  ピアズと向かいあったヴィタ・ファリエルは、軽く手をふって取り巻きたちを遠ざけ、新しく総務会の仲間となった男をじろりと睨みつけた。 「二十五回めの総務会ご当選、おめでとうございます」  ピアズがそう言って頭をさげると、ヴィタ・ファリエルはふんと鼻を鳴らし、 「それは、嫌味のつもりか?」 「いいえ、とんでもありません。私は大アルテとなって間もないうえ、総務会においては完全に新参者ですので、総務会役員を長年つとめていらっしゃるヴィタ・ファリエルどのに御指導いただければと思っております」 「ぬけぬけと、心にもないことをよく言うものだな」  吐き捨てるように言う老人に、ピアズはにこやかに微笑んで「おそれいります」と頭をさげた。 「ところで、ヴィタ・ファリエルどのの邸に滞在中のお客人ですが——」  ずっと渋面をくずさなかったヴィタ・ファリエルだが、ピアズがケアル・ライスを話題にだすと、老人は初めて唇の端に笑いを浮かべた。 「ああ。若いが、礼儀正しい青年だな」 「今夜、迎えの者をやりますので、よろしくお願いします」 「——なんだと……?」  ぴくっと老人の眉がはねあがる。 「遠来のお客人をもてなすのは、デルマリナの利益となること」  その意味でも、と言葉をついでピアズは声をひそめた。 「デルマリナへの正式な使者が滞在していた別邸を襲わせた御仁に、彼をお預けするのはいかがなものかと存じます」  皺だらけの老人の顔が、みるみる土気色に変わった。 「な……っ、なにを証拠に」 「あの別邸に、エルバ・リーアどのが手配されていた若い水夫がいるとお知らせしたのは、ヴィタ・ファリエルどの——あなたに対してのみです」 「私は知らんぞ。初耳だ」  そんなことはないでしょう、とピアズはにっこり微笑んだ。 「過日、ヴィタ・ファリエルどののもとへ、私からエルバ・リーアどのへ宛てた手紙が届いたこと、まさかお忘れになってはいないでしょう?」 「な……なんだと……?」  わざと届け間違いをさせた手紙には、それぞれ両者の懸念を肯定するような内容をしたためてあった。  エルバ・リーアには、ピアズがヴィタ・ファリエルと手を結ぶためにハイランドからの使者、ケアル・ライスを預けたのだ、と推測できるような内容の手紙を。ヴィタ・ファリエルには、エルバ・リーアが手配させているはずの水夫を、実はエルバ・リーア直々の頼みでピアズが別邸に預かっているのだ、と推測できるような内容の手紙を。  誤配された手紙を読んでふたりは、それぞれ相手こそがピアズ・ダイクンと手を結んだに違いない、と考えたはずだ。 「私の別邸を襲撃した者は、ハイランドの使者が持っていたという印章を、あなたのもとへ持ち帰りましたか?」  意地悪く訊ねたピアズに、ヴィタ・ファリエルは目をみひらいておし黙る。  印章とは、正式な交易を結ぶ際に、双方の代表者が書面に押すものをさす。双方の印章が押された書類は、人民評議会において認証され、それを持つ商人だけが相手との交易を許されることになるのだ。逆にいえば、書類を交わさなかった者、交わしても印章が押されていないものは、相手との正式な交易を許されないのである。  それは同時に、相手の印章さえ手に入れればいくらでも自分に有利なように書面を作成できるなどという、不正の温床《おんしょう》にもなりうる可能性もあるのだ。  その印章を水夫が隠し持っている、エルバ・リーアは水夫の罪を見逃してやることで印章を手に入れようとしている、とヴィタ・ファリエルに考えさせるような手紙を、ピアズは書いたのだった。もちろん水夫は印章など持ってはいないし、エルバ・リーアとの裏取り引きもない。そもそも印章の存在自体が、ピアズによるでっちあげだった。 「きさま——謀《はか》ったな……!」  ようやくそのことに気づいたのだろう、ヴィタ・ファリエルは土気色の唇をわなわなと震わせて叫んだ。 「しっ、声が高いです。ピアズ・ダイクンの別邸を襲わせ、八人の家令とその家族、赤ん坊にいたるまで惨殺《ざんさつ》させたのが誰なのか、人々に知られたいとはお思いにはなりませんでしょう?」  ふたりを遠巻きにし、興味津々な様子で耳をそばだてている人々をしめして、ピアズは笑った。 「あなたがなさったことは、私だけでなく、総務会の他の皆さんもご存知です」 「まさか、そんなことを条件にエルバ・リーアたちを味方に引き込んだのか?」 「とんでもない。もちろん、もし事をデルマリナ中に知られたりした場合、あなたの仲間と見られるより、ピアズ・ダイクンに同情的であったと思われたほうがいい、という計算はあったでしょうが。けれど決定的だったのは、あなたが内密に用意させていらっしゃる船の存在ですよ」  老人が、がっくりと膝を落とした。 「——誰か! ヴィタ・ファリエルどのはお加減が悪いそうだ、邸までお送りを!」  ピアズは遠巻きにする人垣に向け、声をはりあげた。転がるように、老人の取り巻きのひとりが進み出てくる。  差し出された手を、触るでないっと怒鳴ってはねつける老人を見やって、ピアズはゆっくりその場を離れた。 「——いかがでした?」  ふたりのやりとりを眺めていたエルバ・リーアが、ピアズを出迎えて訊ねる。 「御覧の通りですよ」  苦笑して応えたピアズに、エルバ・リーアはちらりとヴィタ・ファリエルに視線を走らせると、軽く肩をすくませた。 「新しい時代に、古い人間は要りませんからね。ご老人にはできるだけ早く、引退いただかないと」 「その勧めに、素直に従う御仁とも思えませんがね」 「でしたら、引退を飾る花道をつくってさしあげるのも、我々のつとめでしょう」 [#改ページ]    第八章 別離      1  わけもわからず舟に乗せられたケアルは、寡黙《かもく》な船頭がダイクン邸の舟着き場に舟を寄せてやっと、その目的地を知った。 「おかえりなさい!」  真っ先に駆け寄ってきたのは、マリナである。抱きつかれて目を白黒させながら邸へ視線をやると、夕闇の中、ピアズ・ダイクンが腕を組んで佇《たたず》んでいるのが見えた。  ケアルを出迎えたピアズは、はしたない真似をした娘をたしなめることもなく、またケアルを責める様子もなく、ただにこやかに微笑んで、夕食を御一緒しましょうと告げたのである。  夕食は内々のものではなく、ケアルの他にひとり客人を招いての、おそらくは公式に近い形をとったものだった。  紹介された客人の名は、エルバ・リーア。かつて港で、ケアルに声をかけてきたあの黒い巻毛の男であった。 「いつぞやは、ピアズどのの邸に滞在中のお客人とも知らず、失礼をしました」  ぬけぬけと言ってのける男に腹立たしさを感じつつ、ケアルも「はじめまして」と挨拶を返す。  だが、この場にいるということは、少なくともエルバ・リーアはエリもいた別邸を襲撃させた人物ではないのだろう、とケアルは考えた。エルバ・リーアがどれほど厚顔でも、自分が襲わせた相手の邸で、のうのうと夕食をともにはできないだろうし、そういった疑いのある相手をピアズが招くとも思えない。疑いがないから、あるいは襲撃させた人物をピアズが知っているからこそ、エルバ・リーアはここにいるのだろう。  お互いの紹介が一段落ついたところでケアルは、ここぞとばかりに身を乗り出し、ピアズに訊ねた。 「あの……エリの姿が見当たらないようなのですが……?」  にこやかだったピアズの表情が、少しだけくもった。 「——二日ほど前に、いちど戻って来られたんですが……。すぐに出て行かれて、それっきりなのです。現在ひとを使って、捜させてはいますが——」  どこにいるかはわからない、と軽く瞑目《めいもく》してかぶりをふる。 「そんな、エリはこちらに戻ると……」  そう言って、別れたはずなのに。 「エリというと、ひょっとしてあの、水夫のような格好をしている青年かな?」  ふいにエルバ・リーアが、横から口を出してきた。  ピアズが応える前に、ケアルは「そうです!」とますます身を乗り出し、エルバ・リーアを見つめた。こんな場でエリの消息を訊くことも、ピアズへの問いを横取りして応えることも、おそらく主のピアズや客人のエルバ・リーアに対して失礼なのだろうという自覚はある。けれど、礼儀を云々《うんぬん》する余裕が今のケアルにはなかった。 「なにか、ご存知なのですか?」 「いえ。ただ私が手配させている水夫が、それらしい青年と行動をともにしているらしい、との報告が入っていましてね——」  エルバ・リーアの言葉に、ケアルはぱっとピアズを振り返った。それだけで察してくれたピアズが、小さくうなずく。 「おそらくその青年が、当方のお客人でしょう。今になって告白することになりますが、実は数日前、エルバ・リーアどのが手配中の水夫を匿ってほしいと、彼に頼み込まれたのですよ」  ほう、とエルバ・リーアは黒い目を軽く細めた。 「私にはできないと、いったんは断ったのですが——あまりに一生懸命な様子に、ほだされましてね。匿うことはできないが、別邸で下働きとして雇ってもいいと答えたところ、それでいいということになりまして」 「別邸というと、まさか——?」 「そうです。先日、襲撃をうけ、家令とその家族全員が惨殺された、あの別邸です」  ピアズの言葉に、エルバ・リーアは眉根を寄せて軽く首をふった。 「よりにもよって、というやつですか」 「ええ。けれど、不幸中の幸いと申しましょうか、お客人はなんとか逃げのびることができました」 「お客人は、ですか?」 「私は今のところ、お客人の無事な姿しか見てはおりませんので。まあ、おそらく水夫のほうも無事だとは思いますが」  互いの面子を尊重しあいつつ、相手の腹をさぐりあうという、なんとも気疲れしそうな会話だった。同じように感じたのか、食卓ごしに目が合ったマリナが、子供のように鼻に皺を寄せて小さく舌を出してみせる。 「これは私の推測にすぎませんが、彼はおそらく水夫が逃げのびるか、エルバ・リーアどのが手配をとりやめない限り、戻っては来ないでしょう」 「それは、手配をとりやめろという意味ですか? 残念ながら私にも、船を出すことになった発案者としての責任と、水夫どもに殺されてしまった使者とその家族、そして使者を遣わした御領主への義務というものがありましてね」  わかります、とピアズがうなずいた。  ケアルにもエルバ・リーアの主張は、理解できた。故郷でデルマリナ船がウルバ領主に襲撃されたとき、ロト・ライスは己がやったことでもない、それどころかまったく与り知らぬことだったのにもかかわらず、自ら「これが船を襲撃した犯人だ」と刎《は》ねた首を手にスキピオや水夫らの前に現われた。責任を負う者は、知らなかった、関係ないでは済まされないのだ。 「ご理解いただき、嬉しく思いますよ」  エルバ・リーアはそう言うと、ふとなにか思いついたかのように、軽くひとさし指を立ててみせた。 「ああ、彼が帰ってくる可能性は他にもありますよ」  なんでしょう? と思わず身を乗り出したケアルに、エルバ・リーアがにっこりと笑う。 「水夫が死亡した場合、あるいは、水夫が捕われた場合」  まあ、と非難がましい声をあげたのはマリナだった。 「これは失礼を、お嬢さん。しかし私とて、理由もなく水夫を捕えようとしているわけではありませんよ」  そう言うと彼は、ケアルのほうへと向き直った。 「手配理由は、ご存知ですか?」  はい、とケアルが応えると、彼は目を細めてうなずいた。 「今回そのお話をうかがって私がなんとも不思議に感じるのは、その水夫が犯した罪を知りながら、なぜあなたのお仲間が水夫を庇おうとするのかです」  答えをもとめる視線を向けられ、言葉に詰まったケアルに代わって、事情を知らないマリナが「どういうことですの?」と小首をかしげた。 「マリナ、おまえが口出しすることではないよ」  やんわりと、ピアズがたしなめる。 「あら。でも、うちに滞在しているお客さまの話なのでしょう? だったら、わたくしも知っておきたいですわ」  つんと唇を尖らせるマリナに、エルバ・リーアが苦笑しながら、 「血《ち》腥《なまぐさ》い話になりますからね、私としてもあまり、若いお嬢さんには聞かせたくありませんよ」 「わたくし、平気です。別邸が襲撃されたときも、ちゃんとお話を聞けましたもの」  やれやれ勇ましいお嬢さんだ、とエルバ・リーアが肩をすくめたのを見て、マリナがかっと頬を染める。  とはいえピアズもエルバ・リーアも、マリナに詳しい話をするつもりはないようだ。ふたりは話題を変え、造船所の施設をあたらしくするためになんらかの援助が必要だ、といった政治向きの話をはじめた。  悔しげに唇を噛み、俯いて肩を震わせているマリナを見て、ケアルは思わず、 「——その水夫は、おれの故郷ハイランドへ行った船に乗っていたんです」  いきなり話し始めたケアルに、はっとした様子でマリナが顔をあげる。話を中断したふたりからは、非難の眼差しが向けられた。だがケアルは構わず、マリナの目を見つめて話を続けた。 「ただし、おれとエリが乗っていた船団ではなく——こちらの、エルバ・リーアさんたちが差し向けた船団のほうに。その船団にはハイランドから、おれたちと同じような客が五人、乗っていました」  あくまでも水夫から聞いた話だと断って、ケアルは主観をまじえることなく丁寧に、語って聞かせた。  さすがに、水夫たちが客をひとりひとり殺していった場面では、マリナも顔を青ざめさせたが、決して取り乱したりはしなかった。ケアルの目をまっすぐ見つめ、時おりうなずきながら、最後まで口をはさむことなく耳をかたむけてくれた。 「——以上が、おれがその水夫から聞いたことです。それが事実かどうかは、おれに確認するすべはありませんが」  そう語り終えたケアルに、マリナは静かに頭をさげて「ありがとう」とだけ言った。  あのときは話してくれてとても嬉しかったの、とマリナが語ったのは——もっとずっとあとになってからだ。  わたくしのことを、女のくせにとか、勇ましいお嬢さんだとか言ってからかったりせず、誠実に話してくれて、ありがとう。わたくしを認めてくれて、ありがとう。そんなすべての意味がこめられた「ありがとう」だったのだ、と。      2  ピアズ・ダイクンが総務会の一員に加わってからしばらくして、デルマリナ市内をある噂が駆け巡った。 「——報償金《ほうしょうきん》が出るんだってさ」 「あ。その話、おいらも聞いたぜ。なんでもミセコルディア岬を越えることができた船にゃ、水夫全員に五年は遊んで暮らせる報償金が出るって話だろ?」 「でも、ミセコルディア岬のむこうなんて、なにがあるんだ? 熟練の水夫でさえしりごみするような難所なんだろ」 「莫迦だな。おまえ、知らねぇのかよ。いま大アルテの商人たちはみんな、なんとかしてミセコルディア岬のむこうに行こうって、目の色変えてんだぞ」 「なんでだよ?」 「よくわかんぇけど、ミセコルディア岬のむこうにゃ、すげぇお宝があるんだと。それを手に入れりゃ、一生、左うちわで暮らしていけるんだとさ」 「うそつけ。だって、ミセコルディア岬のむこうに行って帰ってきた船なんか、まだねぇだろ。なのになんで、お宝があるなんてわかるんだよ」 「それが、帰ってきた船があるんだな。それも一隻や二隻じゃねぇ」 「どこの船だ、そりゃ」 「ピアズさんとこが出した船が、最初だったらしいぜ。他にも、総務会のほれ、頑固爺いとか優男とか——」 「みんな金持ちばっかじゃねぇか」 「ああ。だけど、ピアズさんが総務会に入れたのは、お宝を手に入れたからだって、もっぱらの噂だ」 「へぇ。そういや考えてみりゃ、大アルテになったばっかのピアズさんが、いくらなんでもこんな早くに総務会に入れるなんて、なんか変だよなあ」 「だろ? お宝のせいなんだよ。だもんで他の大アルテの商人さまたちも、一発そいつにあやかろうって考えて——」 「とんでもねぇ高額の報償金をつけた、ってわけか」  実際に港へ行った市民たちは、報償金つきの船が二隻、三隻と出航していくのを目にして、やはり噂は本当だったのだと確信したのである。  またやがて、ヴィタ・ファリエルがふたたびミセコルディア岬のむこうへ行くために船を出させたという話が知れ渡ると、船の用意をはじめる商人たちの数が飛躍的に増えた。総務会に名をつらねる彼が船を出したのなら、と人々は考えたのだ。それでもひとりで船を出すのが不安な者は、仲間を募って出資しあった。  そんな状況になってくると、ある程度の小金をもつ商人たちは、ここで船を出さねば自分ひとりが乗り遅れてしまうのではないかと、不安に感じはじめるものだ。  それを煽るように、多額な報償金につられて、本来の水夫たちだけでなく、船乗りの経験すらない男たちも港へと集まってきた。その中には、報償金を元手にデルマリナで商売をはじめようと考えて、田舎から出てきた若者も大勢いた。  するとそれを目当てにして、より高額な報償金を出す船を斡旋《あっせん》する仲介屋だの、物売りだの、春をひさぐ女たちだのが港にたむろするようになったのである。 「あさって出る船は、報償金がよその二割増しなんだと」 「俺が聞いたとこじゃ、若くて力のある男だったら三割増しにしたっていいとさ」 「ああ、その船はだめだ。五十年も前につくった、ボロ船らしいからな。報償金につられて乗って、でも帰って来れねぇんじゃ、もともこもねぇだろ」 「そりゃ言えてるな」  人がふたり以上集まれば、必ずそんな話になった。  今も、ひとり酒場に入ったエリが奥へと進む間、あちらの卓こちらの卓を囲んで、船乗りとおぼしき男たちがそんな話題で盛りあがっている。 「ああ、エリ。みんなそっちの奥で、お待ちかねだよ」  大きく胸のあいたドレスを身につけ、両手に料理を積みあげて運ぶ女が、エリを見つけて声をかけてきた。 「ありがと。それにしても、すげぇ繁盛してるじゃねぇか。オレ、この酒場にこんだけ人がいるのなんか、初めて見るぜ」 「そりゃあんた、やっとあたしの魅力がみんなにわかったのさ」  腰をくねらせて応える女に、近くの卓でどっと笑いが起こり、「いいぞ!」のだみ声が飛ぶ。女の扱いに慣れたいっぱしの水夫のように、エリはにやっと笑うと彼女の腰をひと撫でし、奥の梁にかけられた厚織りの布をつまんだ。そして笑みを浮かべながら用心深くあたりを見回すと、布をめくり、その間に身をすべり込ませたのだった。  布に隠された奥の間には、水夫が五人、店内と同じような卓を囲んでいた。卓上には空になった酒壺がごろごろならび、すでに五人のうち三人までができあがって、椅子からずり落ちそうな格好でいびきをかいている。 「——どうだった?」  手近な椅子に腰をおろしたエリに、真っ先に訊ねてきたのは、ボッズだ。 「ああ。明日に出航するって船が、七隻。そん中で六隻が、ミセコルディア岬のむこうへ行くってさ」  昨日は五隻、今日などは九隻が出航し、そのうちミセコルディア岬をめざさない船は、たったの三隻しかない。  これだけの船がやって来るのを見て、ハイランドの人々の混乱はどれほどのものとなるか。わずか三隻の船にあれほど動揺した島の人々は、どうするのだろうか。想像するだけで、胸がきゅっとへし曲がるような感覚になるエリだった。 「ただし、そのミセコルディア岬をめざさない船ってのは、船主がエルバ・リーアだ。ついでに言うなら、向かう先は沿海だから、十日もすりゃ戻ってくるってよ」  エリの言葉に、ボッズが目に見えてがっくりと肩をおとす。  ここ数日、港にはボッズが潜り込めそうな船が、それこそひとやま幾らの安売りができそうなほど出航準備ができるのを待って停泊している。だが、そのほとんどがミセコルディア岬をめざす船であり、ボッズはもう二度とあの悪夢のような航路をたどりたくはないと言っているのだった。 「それにしてもすげぇのはさ、いま港で乗る船を捜してる水夫の二人にひとりが、自分はミセコルディア岬のむこうから戻ってきた船に乗ってたんだ、ってぬかしてるらしいんだ」 「なんだ、そりゃ?」 「どうやら、ミセコルディア岬のむこうから戻ってきた水夫にゃ通常の二倍とか給金を払う、って船主がいるみたいだぜ」  へえ、と杯を傾けていた水夫が顔をあげた。そして、いびきをかいて眠りこけている仲間の足やら椅子を蹴飛ばした。 「おい、聞いたか?」 「えっ、なんだって?」  眠っていた三人が、もぞもぞと赤い目をして起きだした。起こした水夫が、エリの言ったことを話して聞かせると、みんななんともいえない苦笑いを浮かべた。  ここにいる全員が、ハイランドへ行って戻ってきた水夫だ。ボッズともうひとりが、エルバ・リーアの出した船に乗っていた水夫で、エリを含めて四人が同じ船に乗っていた仲間だった。 「だけどなぁ、いくら倍出すって言われても、ちょっとなぁ……」 「そうだよな。ま、あと半年もすりゃ、喉元過ぎれば熱さ忘れるってやつで、その気になるかもしんねぇけど」  おそらく、本物の�ミセコルディア岬のむこうから戻ってきた�水夫のほとんどが、同じような思いに違いない。 「しかしまあ、そういう状況だってことはつまり、俺らにはしばらく、乗れる船はなさそうだな」 「ああ。デルマリナ中に流行ってる、この�お宝�熱がおさまらねぇとな」  卓上にならぶ酒壺をのぞきこみ、その全部が空だとわかると、かれらは梁にわたした布の端をめくり、酒場女に声をかけた。 「おいっ、酒がもうねぇぞ!」 「あんたたち、まだ飲むのかい?」 「当り前だろうが。こんなもんで、足りるかってんだ。どんどん持って来い」  乗る船もなく無聊をかこつ水夫が陸でやることは、博打をするか酒を飲むか。こればかりは古今東西、変わりがないようだ。    * * *  その集団が港にあらわれたのは、港がひとであふれかえりはじめてから三日ほど経った朝のことだった。  揃いの黒い上着をつけ五人ずつで行動する隊が、全部で七集団。かれらは出航を待つ船へ次々に乗り込み、船長あるいは水夫頭に、自分たちは議会の遣わした公安隊であると名乗った。  臨検を行ない、その船がミセコルディア岬のむこうへ向かうものであるとわかると、飲み水など積み荷の不備、水夫ら操船要員の不備などといった些細なことを言い立てて、出航の差し止めを言い渡した。それでも出航しようとする船があるとわかると、今度は港の出入口を封鎖したのである。  船に向かった公安隊とは別の何隊かは、港周辺の宿あらためを行なった。身許の確かでない者や、不自然に大金を持つ者は捕えられ、片端から舟に乗せられどこかへ連れられていった。  人々はなにが起こったのかとまず戸惑い、続いて公安隊の強引さに腹を立てたのだが、どこへ苦情を持ち込めばいいのかわからなかった。議会が遣わしたならと、議会に勤める職員に詰め寄った者もいたが、我らの関知せぬことと突っぱねられ、すごすごと帰るしかなかった。  かくして——ミセコルディア岬のむこうへ向けた出航にわいていた港は、わずか半日にして静まりかえり、周辺の宿屋も酒場も閑古鳥《かんこどり》の鳴くさまとなってしまったのである。  酒場で仲間たちと酔いつぶれたエリは、その夜は宿屋にもどることができず、おかげで公安隊の宿屋あらためにひっかからずにすんだ。おそらく宿にもどっていたら、不相応に思える大金を所持しているエリや、うしろ暗いことのあるボッズらなど、厄介なはめになっていたかもしれない。  追い立てられるようにして、エリたちは港を離れた。  同じように港を離れざるをえなかった人々は大勢いて、静かになった港周辺の代わりに、デルマリナ市内の下町はいっきに人口が二倍近くにまでふくれあがった。  いわゆる下町と呼ばれる地区は、大運河のもっとも下流にあたる、間口の極端に狭い住宅が密集した場所をさす。野心を抱いて田舎からデルマリナに出てきた者は、たいてい最初にこの地区に居場所を定めるものだ。  宿屋などというたいそうなものはなく、あるのは寝台ひとつ十日間でいくらという、窓さえない暗くじめじめとした共同部屋である。人々はここを拠点として、まずは行商の物売りを始めたり、どこか条件のいい店に職を捜したりするのだ。 「なんだ、こりゃ。これであの金額とるのかよ……」  十日分の料金を支払い、三階の奥の部屋だと言われて扉を開けたエリは、思わずそうつぶやいた。  部屋にはぎっしりと、寝台が並べられている。寝台と寝台の間は人がひとり、斜めになったり横になったりしながら、どうにか通りぬけられる程度しか空いていない。寝台の上や下には、そこを借りている者の荷物が積みあげられていて、いっそう狭苦しく感じられた。そのうえまともに掃除どころか換気さえされていなさそうな室内には、むっとするすえた匂いがこもっている。 「まあ、船に乗ってると思えば……。とりあえず、船と違って揺れないし」  ボッズがあきらめた口調で応えるのへ、エリは顔をしかめてみせる。 「船だったら、こっちが金払うこたねぇじゃんかよ。反対に、ごくろうさんっつって給金がもらえるしさ」  声高に悪態をつくエリに、奥の寝台の上で車座になって博打に興じている男たちが、じろりと胡乱《うろん》げな視線を向けてくる。だがエリは素知らぬ顔で、空いている寝台を見つけると、その上に腰をおろした。  ざっと見たところ、寝台は九割方埋まっているようだ。今はまだ外出中の人々が多いのか、室内に人の姿はまばらだが、これが夜になったときのことを想像すると、ぞっとしてしまう。 「いつもこんな、混んでんのかな?」 「いや。こんなに客が多いのは、祭のときだけだよ」  エリの疑問に答えたのは、近くの寝台の上で煙管《きせる》をつかっている老人だった。 「祭の時期は、部屋の中どころか廊下や階段の踊り場にまで、寝台がわりの藁を敷いて、その全部がいっぱいになるんだ」 「へぇ……」  老人は煙管を、ぽんっと煙草盆《たばこぼん》に打ちつけると、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして目を細めた。 「坊、知ってるか? 犬でも鼠でも、狭いとこに大勢を詰め込むと、たちまち殺し合いを始めるんだ。人間だって変わらねぇ。祭のあいだ、このあたりは朝から晩まで喧嘩が絶えねぇし、盗みやかどわかしなんてのもしょっちゅうだ。それでもまあ、祭見物に来た連中だからな。荒っぽいのもちっとはいるが、たいしたもんじゃねぇ」  それが、と老人は顎先で部屋をぐるりとしめしてみせた。 「荒っぽい連中ばかりだ。腕っぷし自慢がよくまあ集まったもんだ、ってな感じでさ」  奥で博打をやっている男たちから、うるせぇぞ爺いっ、と怒鳴り声が飛んできた。それに怖がるふうでもなく、老人は肩をすくめると、ほらなと言って欠けた歯をむきだして笑ってみせた。 「今夜あたり、厄介なことになるな。これはわしの——ここに暮らしてもう十三年になるわしの勘だがね」 「爺さん、十三年もここにいんのか?」  エリは目を丸くして、老人の顔を見つめた。 「ああ。ずっと水夫をやってたんだが、この通り足を痛めてね」  ぽんぽんと叩いてみせた老人の右足は、太股から先がなかった。 「帰る故郷もねぇし、わしなんぞを待ってくれてる女もいなかったしな。ここなら、賃雇いの仕事を三日もやりゃ十日食っていける。そうやって、十三年も経っちまった」  これまでの人生を悔《く》いているふうもなく、淡々とそう言って、老人は煙管に火を入れた。 「坊、悪いことは言わねぇ。帰るとこがあるなら、待っててくれるひとがいるなら、今のうちにここを出な。今夜は危ねぇ、これまでになく厄介なことになる」 「んなこと言ってる爺さんは、どうすんだよ。危ねぇっつって、オレよか爺さんのがよっぽど危ねぇんじゃねぇのか?」 「わしはいいさ。船を降りて、十三年。長過ぎるぐらい生きたからな。ここで終わるなら、それも人生さ」  できるなら海の上で終わりたかったけどよ、と老人は煙管をくわえて笑った。  そばで話を聞いていたボッズが、どうする? と目顔で訊いてくる。老人の言葉にしたがって、ここを出るか?  いや、とエリは首をふった。 「オレにも、故郷はねぇんだ。待っててくれるやつは——まあ、いるようないねぇような感じだけどさ」  思い浮かんだのは、母の顔ではなく、赤毛の親友の顔だった。  おまえより自分の責任を優先してしまったと、ひどく辛そうな顔をして謝ったケアル。エリはあの瞬間、お互いがどれほど遠くへ来てしまったのかを悟った。  エリを親友だと思っている限り、ケアルは他のなによりもエリを優先したいと考えるだろう。けれど現実的に、ケアルが領主の代行である以上、彼が優先すべきはライス領とその領民、そしてハイランド全体なのだ。親友を優先できない自分自身を、ケアルはこの先ずっと、責め続けることになるだろう。 (オレが親友面して、そばにいたら——ずっとそうだ……)  考えているうちになんだか涙が出そうになって、それを振り切るようにエリは明るい声をはりあげた。 「爺さん。いざとなったらオレが、爺さんをおぶって逃げてやるよ」  まかせとけと胸をたたくエリに老人は、息のぬけたような笑い声をあげて、皺の奥の目を細めたのだった。      3  その騒ぎのきっかけは、しごく些細なものだった。  港の荷積み人夫たちが下町の路上で、賭場《とば》をひらいたのだ。港や船でひらかれる賭場は、下町の賭場にくらべて賭け金は割高ではあるが、勝てば大金が懐にころがりこむ。たちまちその賭場には、ひとだかりができてしまった。  客を取られて黙っていられなくなったのは、これまで下町で賭場をひらいていた破落戸《ごろつき》たちだった。深夜、破落戸たちは徒党を組んで、まだひとだかりの絶えない賭場を襲ったのである。  破落戸たちと荷積み人夫たちの喧嘩は、しかし短時間でかたがついた。客たちの援護をうけて、荷積み人夫らが圧勝したのだ。  だがその数刻後、ふたたび破落戸たちは荷積み人夫らが泊まっている共同部屋を襲った。破落戸らに踏み込まれた部屋には、荷積み人夫だけではなく他に客もいたが、かれらはそんなことに構いはしなかった。逃げる客を追いかけて、たたきのめす。庇った者も仲間とみなし、取り囲んで殴りつける。  たちまち騒ぎは、下町全体に波及した。  怒声が響きわたり、逃げる者、追う者が混然となって狭い路地を埋めた。また、あちこちで火の手があがりはじめると、建物が密集した下町はひとたまりもなかった。狭い水路は煙が充満し、黒い水面に炎と煙にまかれた人々が次々に飛び込んだ。  もちろんデルマリナ市民はそれを、手をこまねいて眺めていたわけではない。造船職人らで組織された消防隊が出動して延焼をくいとめる一方、炎にまかれて水路に飛びこんだ人々をたすけるため、あちこちから舟も集まってきた。  たすけあげられた人々は、下町からそう遠くない港へ運ばれ、身ひとつで逃げてきたかれらのために、港に倉庫をもつ商人の有志らが食べ物や飲料水を配った。  港には公安隊が詰めていたが、さすがに避難してきた人々を追い出すわけにはいかないと考えたのか、かれらに手出しをすることはなかった。だが、この騒ぎに乗じて出航する船があるかもしれない、あるいは船に乗り込む者がいるかもしれないと、埠頭にずらりと人を配置し、近づく人々に目を光らせた。  続く騒ぎは夜明け前、下町がようやく鎮火する兆しをみせはじめたころ、この港で起こったのである——。    * * *  エリは自分で宣言した通り、騒ぎが始まると老人を背負って逃げ出した。  十三年間をここで過ごしたという老人は下町の地理をよく知っており、火の手があがったあとの混乱を、エリは背中の老人が指示する通りに走ってくぐりぬけた。  老人のおかげでボッズら仲間とはぐれることもなく大運河に出たときには、炎は夜空を朱色に染め、黒煙があたり一帯にたちこめていた。待機していた救助の舟に仲間たちと乗り移り、港へと運ばれる間、エリは老人が何度も燃える町を振り返るのを見た。 「爺さん、ひょっとして誰か気にかかる人でもいるのか?」  エリの問いに老人は、この騒ぎの中でもこれだけは持ってきた煙管を口にくわえると、うっすら目を閉じた。 「——いや。また生き残ったか、と思ってな……」 「辛気《しんき》くせぇこと言うなよな。せっかく助かったんだぜ」  言いながらエリは、舟上にいる仲間たちを見回した。 「爺さんのおかげで、オレらも助かったようなもんだしさ」  なあ、というエリの問いかけに、煤だらけの顔がいくつもうなずき返す。そうかと笑った老人は、けれど少しも嬉しそうには見えなかった。  港に着いた舟は、エリたちを降ろすとすぐまた下町へ救助に向かった。  同じような舟が何艘も、人を降ろしては戻っていく。舟を降りた人々はたいてい放心した様子であたりを見回し、やがて人が集まっている倉庫のほうへ、足を引きずるように歩き出していった。  エリたちが着いたとき、集まっている人々の数は、四、五十人そこそこだった。身内同士、あるいは知り合い同士が身を寄せ合って座り、煤だらけの顔でぼんやりと、夜空が朱に染まった方角を眺めている。やがて駆けつけた有志の商人たちが倉庫を開け、食料や飲料水を配りはじめた。  エリも仲間たちと並んで、水と食料を自分と老人のふたりぶん受け取った。その頃にはもう、港には二百人をこえる人々が下町から焼け出されて集まっていた。そしてその人数は、加速度的に増えつつあった。 「水も食料も、もうねぇんだって」  最初のころは、ひとりにつき水を一椀、航海のときの主食となる硬焼きのビスケット二枚ずつが配られていたが、避難してくる人々が増えるにしたがって、当然のことながら不足しだした。  焼き出されて放心していた人々も、やがて落ち着いてくると、喉が渇いていたり腹がへっていたりしていることを思い出す。それでも水や食料が配られている間はよかったが、なくなってしまったとわかると、次はいつ手に入るのかわからないという焦りで、恐慌状態に陥る者が出始めた。 「ちょっとごめんよ。そこ、通してくれねぇかな」  空になった水樽を見おろして途方にくれる人々の前に、三十がらみの男が立った。 「みんな、聞いてくれ。実はあそこに、俺の船がある」  男が指さしたのは、埠頭の端に停泊する船だった。 「俺が全財産はたいて借りた船だ。船は俺のもんじゃねぇが、積んである荷は俺のもんだって胸をはって言える」  おどけてみせた男は、ゆっくりと人々を見回した。 「ほんとは、ミセコルディア岬のむこうへ行くつもりだったんだがね。出航さしとめを食らって、このぶんじゃ積んである荷も腐っちまうしかねぇだろう。それならいっそ、ここにいる皆に分けちまったほうがいい」  男がなにを言いたいのかわかって、人々は歓声をあげた。 「水は五十樽、食料も三十樽ある。味は保証できねえが、欲しいと思うやつは、俺について来な!」  人々は男の先導にしたがって、ぞろぞろと歩きだした。  ふいに悲鳴と怒号が聞こえ、エリは思わずのびあがってそちらへ目をやった。 「なにがあったんだ?」  港に避難している人々は、このとき千人を超えていた。エリたちが座る場所からは、夜明け前の暗さも手伝って、何も見えない。 「あっちのほうで、公安隊と揉めごとがあったらしいよ」  エリたちの近くで身を寄せ合う人々の間から、応えがあった。 「公安隊だって……?」  仲間たちと顔を見合わせ、エリはひょいと立ちあがった。 「坊、どこへ行く?」 「ちょっと見てくるよ」  やめなさいと言いたげな老人の視線をふりきって、歩き出す。駆けたいところだが、あたりは人がいっぱいで、ごめんよと声をかけながら人々の足を踏まないように背中にぶつからないように進むしかなかった。  あっちのほうと教えられた方へ少し進むと、怒鳴りあう声がはっきり聞こえてきた。 「水も食い物も、もうねぇんだよ!」 「あっちへ行け!」 「大人は我慢できても、子供はできねぇんだ。せめて子供にやるぶんだけでも……!」 「うるさいっ!」  うす闇にぼんやりと、人垣が見えた。 「おまえらのやろうとしていることは、強奪だ! もどれっ!」  人垣に向かって怒鳴っているのは、海に背を向けて立つ公安隊の面々。 「なに言いやがる! もともとはてめぇらが港から人を追い出すから、こんな騒ぎになったんじゃねぇか!」  そうだそうだと、人垣から声があがる。  公安隊と対峙している人垣に、あとからあとから人が集まってきている。エリは人垣に駆け寄っていく男をつかまえ、なにがあったのか訊ねた。 「あっちで配ってた水も食料も、もうなくなったんだ。そんで、あそこに停泊してる船の持ち主が、積んである水と食料を出して皆に配ろうとしたら、連中が止めやがった」 「連中って、公安隊か?」 「そうだ。船に近づいたとたん、なにも聞かず殴り倒しやがったらしい」  男は怒りに震える声でそう言い捨てると、人垣の中へ突っ込んでいった。  エリが人垣にたどり着いたとき、前のほうではすでに殴り合いが始まっていた。公安隊の面々は屈強な男たちだが、焼け出された人々は気が立っているうえ、かれらの何倍も数がある。三人がかり五人がかりでかかって来られては、太刀打ちのしようもない。たちまち群衆は公安隊を蹴散らし、船に板を渡した。次から次へ、人々が乗り込んでいく。  船底から樽が持ち出され、陸へと降ろされた。待ってましたとばかりに、人々が樽に群がる。  あぶれた人々は、勢いを借りて隣に停泊する船にも板を渡した。別の公安隊が駆けつけたが、群衆の勢いは止まらなかった。  エリもまた群衆の波に押され、陸から渡り板へ、そしていつの間にか船の甲板に立っていた。久しぶりの船、懐かしいタールの匂いがする甲板。白みはじめた東の空に、凛として立つ帆柱。自然と手足が動き、エリは帆柱をのぼりはじめた。  見張り台に乗ったエリは、下界を見おろす。ここからだと、港の全景がほぼ把握できた。埠頭の先や海上は、どうやら靄《もや》が出ているらしく、はっきりしない。だが、焼け出された人々が集まっている東側は見てとれた。  倉庫のそばでうごめく人々の波、波間があるように人の姿がまばらになった一帯があり、こちら半分は船へ向かう人々が波をつくっている。先を争うようにして、隣の船やそのまたむこうの船に乗り移っている男たちの姿も見える。大勢いたはずの公安隊は、どこにも見いだすことはできなかった。群衆の勢いに押されて、逃げたのだろう。  下にいては、見えなかったことだ。  たぶん、とエリは思う。翼で飛んだ経験はないけれど、おそらくケアルは空を飛びながら地上の人々や光景を、こんな視界で見おろしていたのだろう。地上にいては見えないものを目にし、右も左も、島々も「上」も同じ視界の中に入れて、ケアルは飛んでいた。  上空から見れば島人も上に住む人々も、同じ小さな影にしか見えなかっただろう。 (あいつは、何も言わなかったけど……)  船へと押し寄せてくる人々の中に、エリはボッズや仲間たちの姿を見つけた。老人は仲間のひとりに背負われながら、若い頃の血でも騒ぐのか、拳をふりあげている。 「おーい、こっちだ!」  声をはりあげ手を振ったが、この騒ぎの中かれらが気づくはずもない。  少し考えて、エリは見張り台に括りつけてある木槌を手に取った。見張り台の上部には、小さな鐘がぶらさがっている。陸が見えたとき、何かが船に近づいてきたとき、あるいは水夫が勤務を交替するときに、この鐘は鳴らされるのだ。  カーン、とひと撞《つ》きした。騒ぎの中、たいして響きはしなかっただろうに、群衆の中の何人かが帆柱を振り仰ぐのが見えた。たぶんかれらは、鐘の音に敏感な船乗りだ。思った通り、ボッズや老人も鐘の音に気づいて帆柱を見あげた。エリが手を振ると、驚いた様子で手を振り返してくる。こっちへ来いよ、と合図したエリにうなずいて、仲間たちがこちらへ向かいはじめた。 「おいっ、エリじゃねぇかっ?」  そろそろ帆柱からおりようと考えたエリに、甲板から声がかかった。見おろせば、同じ船でハイランドからの航海をともにした水夫が三人、帆柱の根もとからこちらを見あげている。煤まみれではあるが、懐かしい顔だった。 「なんでおまえ、こんなとこにいるんだよっ?」  大声で訊ねられ、苦笑する。確か彼の声の大きさは、船内一だった。 「いま、降りるからっ!」  返事をして、見張り台の外に体重を移したとき、近くで水音があがった。 「だれか落ちたぞっ!」 「こっちだ! 船と岸の間っ!」  考えればこの騒ぎの中、海へ落下する者が今までいなかったのは、幸運だったとしか言いようがない。 「あいつ、泳げねぇんだよ!」  落ちた者の知り合いなのか、誰かが悲痛な声で訴えている。 「なんだとっ? 早く助けろっ」 「縄を持ってこい!」  声が飛び交い、人々が船と岸の間をのぞきこむ。あたりは白々と夜が明けてきたものの、船と岸の間はそこだけまだ夜更けの最中に取り残されたように暗い。  エリは急いで帆柱をおりると、船首へ向かって走った。 「縄をほどけっ!」  船首で甲板から身を乗り出したエリは、岸にいる人々に怒鳴った。船が岸から離れないように、地面に深く打ち付けた杭《くい》には、船からのばした何本もの縄が巻かれている。  怒鳴られても、意味がわからずきょとんと立ちつくす人々がほとんどだったが、何人かの男たちが走り寄り、杭に巻き付けた縄をほどきはじめた。服装や慣れた手つきから見て、おそらく水夫だろう。  続いてエリは、船尾の操舵輪《そうだりん》に駆け寄り、舵《かじ》が動かぬよう留めた縄をはずした。 「渡り板をはずせっ!」  誰かが怒鳴る声を聞きながら、舵輪を力いっぱいに回す。 「取り舵いっぱいだ! 離れろっ!」  ギギギッと船が軋みをあげ、右舷へ船首を向けながら少しずつ岸から離れていく。 「いたぞっ! あそこだ!」 「縄をおろせっ!」 「いや、飛び込んだほうが早い!」  舵輪を握りしめるエリの横を、男たちが走り過ぎる。誰かが海へ飛び込んだ水音、頑張れという声援。エリの耳の奥で、早鐘のような音が鳴り響いている。 「よしっ、引き揚げろっ!」  水夫たち独特の、ヒーブヒーブという掛け声があがる。展帆や畳帆を行なうとき、水夫たちはこの掛け声を合唱しながら、力を合わせて縄を引くのだ。 「坊、よくやったな」  肩をたたかれ、エリはぽかんとして振り返った。 「落ちたやつ、助かったぜ」 「坊が船を動かさなかったら、危なかった。船と岸にはさまれて死ぬやつもおるしな」  見おぼえのある顔が並んでいる。耳の奥で鳴り続けていた鐘の音がやっとしずまって、かれらの声がはっきりと聞こえた。  膝から力がぬけそうになり、エリは舵輪にしがみついた。見れば船はもう、岸から帆柱の長さぶんほど離れている。 「さあ坊、岸にもどろう。操舵は坊に任せていいな?」  老人が晴れ晴れとした顔で笑いながら言うのへ、エリは子供のようにうなずいた。  しゃんと立ち直し、舵輪を握る。大丈夫だ、ちゃんとできる。自分に言い聞かせ見すえた前方は、靄《もや》がかかって船も埠頭も乳白色に染まっている。 「取り舵、いっぱい!」  老人がその年齢にそぐわぬ張りのある声をあげたとき、靄のむこうから鐘の音が聞こえてきた。  なんだ? とその場にいる全員が顔を見合わせる。短くカンカンカンと鳴り続ける鐘の音は、緊急を知らせる合図だ。 「船だ! 船が向かってくる!」  帆柱の上から、声が響いた。 「二隻、三隻……! 全部で三隻!」  靄のむこうから突如として、船が姿をあらわした。 「よけろ! ぶつかるぞ!」  老人の声にうなずく間もなく、エリは力いっぱいに舵輪を回した。  あらわれた船は、渡り板一枚ぶんもない距離を通り過ぎていく。甲板に二十数人ほどか、立っているのが見えた。 「——やつら、公安隊だっ!」  黒い揃いの短い上着の男たち。 「板を渡そうとしてるぞ! こっちに乗り移る気だ!」 「なんで、そんな危ない……っ?」 「俺らが出航しようとしてると思ってるんだ、きっと」 「——ってことは、俺らを捕まえるつもりなのかよっ?」  させるか、と叫んだのは、エリだったのか老人だったのか。 「帆を広げろ! 三枚でいい!」  鐘の音が響く中、甲板の上を仲間たちが走る。 「面舵《おもかじ》っ! いくぞっ!」  帆柱にのぼった仲間たちに向かって、エリは怒鳴った。  公安隊に捕まったら——ボッズらは殺されるだろう。その他の仲間たちも、ただでは済まないに違いない。理由はなんであれ、エリたちは船を占拠し奪ったことになる。船主の許可もなく、船長の指示もなく船を動かすことは、水夫たちの反乱と看做されるのだ。そしてそれは、死に値する重罪だった。 「坊、靄にまぎれて逃げるんだ」  老人がエリの背中をたたき、靄の濃い方角を指さす。 「このへんの海のことなら、わしに任せろ。わしなら目をつむっていても、浅瀬がどこにあるか、潮がどう流れているか、わかる」  頼むとうなずいたエリは、舵輪をしっかりと握り直した。 「二隻め、左舷前方から来るぞ!」 「取り舵っ、いけっ!」  靄の中に一瞬にしてあらわれた船は、ふたたび靄のむこうへと消えた。  エリの耳の奥で、ふたたび鐘の音が激しく鳴る。  これは現実の鐘の音なのか、それとも血が脈打つ音なのか——。 「爺さん、こんなことに巻き込んで、ごめんな」  前方を見据えたままエリが言うと、老人はからからと笑った。 「なに、いいさ。このわしが再び船に乗れるとは、思ってもいなかったしな」  ほんの先ほどまで、また生き残ってしまったかと悲観していた老人と同じ人物には思えない、いっそ清々しい声だった。  そうか、とエリは舵を握りしめて笑う。 「だったらこのまんま、大海原を好きに走りまわるのもいいかもしんねぇな」  どこへ行くという目的もなく、口うるさい船主になにを言われるかという心配もない航海。ちょうどケアルが以前、飛びたくて飛んでいるのだと言っていたと同じように、海を行けたら……。  かくして船は、誰かに別れを告げることもなく、見送る者もなく、港を出たのだった。      4  公安隊が誰の命により出動したものなのかをデルマリナ市民が知ったのは、下町の大火から三日後のことだった。  ヴイタ・ファリエルともうひとりの総務会の役員が、議会の査問にかけられたのである。査問の詳しい内容については公表されなかったが、その翌日、ヴィタ・ファリエルは議会に総務会役員の辞任を申し出て、受理された。そして数日後、ヴィタ・ファリエルは隠居し、彼の娘婿がファリエル家の新しい当主となったのである。  また査問の翌日には、公安隊は解散させられ、港から彼らの姿が消えた。  それらのことからデルマリナ市民は、公安隊は誰が組織したのか、誰の指示によって動いていたのかを知ったのだ。  しかし、港にふたたび人々があふれかえることはなかった。それというのも、船団長ヴェラ・スキピオをはじめとする�ミセコルディア岬のむこうから戻ってきた�船乗りたちが、広く人々に航海の苛酷《かこく》さを語ったからである。  特に三隻の船団で船を一隻失ったことは、船主たちに出航を思いとどまらせる大きな要因となった。船の修理費の捻出《ねんしゅつ》さえ容易ならざる商人たちにとって、もし船を失う事態に陥れば、それは即、身の破滅を意味したのだ。それを理解してなお船を出す船主は、デルマリナには存在しなかった。    * * * 「今日も見つからなかったの?」  出迎えたマリナに訊ねられ、ケアルは力なくうなずいてみせた。  下町の大火があった夜、ケアルはエリがあそこにいるのではないかと、夜空を焦がす炎を目にして震えあがった。危ないからと止めるピアズやマリナを振り切り、舟で下町まで行ったのだが、混乱した人々の中にエリの姿を見つけることはできなかった。焼き出された人々を乗せて港と下町を何度も往復し、そのたびに舟に乗ったかれらに、金髪のエリという名の若者を見ていないかと訊ねたが、首を縦にふる者はだれもいなかった。  大火により焼け出された市民の数は三千人をこえる。その中から、たったひとりを見つけ出すのはあまりに困難だ。実際、親とはぐれた子供や、肉親と離ればなれになっていまだ生死すらわからぬ者も数多い。  死者の数は五百人と発表されたが、それもさだかなものではない。その倍、あるいは三倍いるかもしれないとは、デルマリナ市民の共通した認識だ。  必ずエリは生きている、生きてどこかにいるのだと信じて、ケアルは親友が立ち寄りそうな場所を訪ねまわった。  だが…………。 「だいじょうぶよ。きっとそのうち、ふらっと現われて、なんだおまえオレのこと心配してたの、とかなんとかけろっとした顔で勝手なことを言うに決まってるわ」  今日もだめだったと帰るたびに、マリナは真剣に力づけてくれる。何度もくじけそうになりながら、それでもエリを捜してまわれたのは、マリナの励ましによるところが大きいだろう。  でも、とケアルは、するっとさりげなくマリナが回してきた手を見おろして、なんとも複雑な表情を浮かべた。  デルマリナでは、男性が女性に手を貸して歩いたり、舟に乗ったりは当り前のこととして行なわれているが、ケアルにはどうにも馴染めない。故郷では夫婦であっても、腕を組むどころか並んで歩くことすら稀だった。  夫婦や親子ならまだしも、結婚前の男女が腕を組んだり、こんなに接近して歩いたりしていいものなのだろうか、とケアルはかなり真剣に悩んでしまうのだ。なのにマリナは、そんなケアルの困惑など知らぬげに、無邪気にケアルの腕を取る。  最初は、からかわれているのだと思ったほどだ。接近され、触られて、どぎまぎするケアルをおもしろがって、ことさら大胆に腕を取ってくるのだと。  今はもう、マリナがそんな娘ではないと知っている。だが、知っているからといって平気になったわけではないあたり、まだまだケアルの悩みは尽きそうにない。  ケアルとマリナが並んで二階への階段に足をかけると、上から見知った男が降りてきた。ふたりに気づいた男は、おや、と足を止めると、 「先日の大火では、手伝っていただいて、ありがとうございました」  頭に乗せた小さな帽子をとって、ケアルに礼を言った。あわててケアルも頭をさげ、 「いえ、たいしたお手伝いもできなくて。それより、皆さんの御活躍に感動しました」  大火の夜、下町に真っ先に駆けつけたのは造船職人らで組織されている消防隊だった。造船職人の組合長を勤めているという彼は若い職人らを指揮して、火が下町の外に移るのを食い止めたのだ。  ケアルが現場に着いたとき、彼は若い職人たちの配置指示を終えたところだった。知った顔を見つけて駆け寄ったケアルが、エリを見かけなかったかと訊ねると、とたんに怒鳴りつけられた。  いま、身内の安否をたずねてまわられては消火の邪魔だ、そんなことは後からいくらでもできる。舟に乗って来たのなら、焼き出された人々を港へ移送する仕事を手伝え。  まさにその通りだと思ったケアルは、彼に謝り、移送の仕事を手伝ったのだった。 「あのときは、失礼しました。お客さんに危険な仕事を手伝わせるなんてと、あとで皆に叱られてしまいましたよ」  恐縮した様子で頭をかく彼に、ケアルはあわてて手をふった。 「いえ。おれは下町と港を往復しただけで、全然あぶなくなんかなかったですし。それにあのときは、自分のことばかり考えてしまっていて——すごく恥ずかしいです」 「恥ずかしいことなどないですよ。私だってもし、あそこに家族や友人がいるかもしれなかったら、消火の指揮などとっていなかったでしょうからね」  だのに手伝っていただいて、ほんとうにありがとうございました、と彼は重ねて礼を言った。そしてつと顔をあげ、 「ところで、御友人のことですが——まだ安否の確認がとれないとか?」 「ええ。でも、悪運の強いやつですから、きっと無事でいると思います」  心配してくれる相手に笑ってみせられるようになったのは、ここ三日ほどだ。ケアルが笑みを浮かべてみせると、彼はどこか痛いところでもあるように、かすかに眉根を寄せた。 「その御友人ですが——私は二度ほどしか、お目にかかったことはないんですが。確かこう、明るい金髪の青年でしたな? あなたと同じ歳ぐらいの」 「そうです。おれのほうが少し背が高いですけど、歳は同じ十九です」 「水夫のような格好をなさっていて?」 「はい。それがなにか……?」  ケアルが訝しげに首をかしげると、彼は少しためらったあと、これはうちの若い職人から聞いた話ですがと断って、 「それらしい人物を見た者がいるそうなんですよ——」  思わずケアルは、彼の腕をつかみ、握りしめていた。 「ほんとに? 誰なんですか、それは。どこにいるんですか?」  マリナが気をきかせて、主階の一室を用意してくれたので、ケアルは造船職人のその男と場所を変えて向き合った。 「あの大火の騒ぎにまぎれて、船が何隻か盗まれたことをご存知ですか?」 「ええ。でも、港を出る前に捕まえられたと聞きましたが」  あるいはその船を盗んだ者たちの中にエリがいるかもしれないと考え、ケアルはかれらが囚われている牢屋まで行ったのだ。だがその中に、エリはいなかった。 「ところが、一隻だけ港を出ていった船があるらしいんですよ。それは、いちばん初めに岸を離れた船らしいんですが」 「知りませんでした。だれもそんなこと、教えてくれなかったし——」  肩を落としたケアルに、彼は「そうじゃありません」と首をふった。 「皆、その船に捕まってほしくないんですよ。他の船は、最初の船が岸を離れるのを見て悪事を思い付いたようなやからですから、捕まって当然なんですがね。皆はその船も捕まったかもしれないと、あわてて牢に行ったんですが、それらしい人物はいなかったそうなんです。だったら捕まらずに逃げたんだと考えて、ずっと内緒にしていたんです」 「内緒に……?」 「船の強奪は、死罪ですからね。皆は、もしかれらが捕まっていたなら、議会に嘆願書を出すつもりでいました」  どうして? というケアルの問いに彼は、どこか自慢げに胸をはった。 「なぜなら、かれらは人の命を救ったんです。岸と船の間に落ちた男を助けるために、船を動かしたんですよ。決して船の強奪が目的ではなかった」 「——だったら、船を強奪したことにはならないし、死罪にだってならないんじゃないですか」 「他人の船を許可なく動かせば、理由があるなしに拘らず、船の強奪とみなされます。これは、水夫たちの反乱が多発した頃につくられた法なんですがね」 「なら、法を変えればいいでしょう!」  拳を握りしめて言ったケアルに、彼は苦笑してみせた。 「一般市民が変えられるもんじゃありません。考えてもみてごらんなさい、船を持っているのは大アルテばかりだ。議会を掌握《しょうあく》しているかれらが、自分たちの不利になるような法の改訂を許すはずがないでしょう?」  肩をすくめてみせるその仕草、あきらめきったその口調に、ケアルは身体がふるえるほどのもどかしさを感じる。腹が立ったわけではない、彼が悪いわけでもないと思う。ただただ、もどかしいのだ。 「——そんなわけで、皆はかれらに捕まらないでほしいと考えているんです。だから噂にもなっていないでしょう? デルマリナ市民は噂好きですが、情が深いから、こんなときよっぽどでない限り喋りませんよ」  彼の下で働く若い職人がそれを聞いたのは、その若者もまた肉親の——弟の安否をたずね歩いていたからだという。 「歳は十九、背丈も同じぐらい、やはり同じように水夫の格好をしていたそうです、あいつの弟は」  若者がたずねた人のひとりが、船にいた者の顔や姿をおぼえていたらしい。歳や格好に心あたりがあると、若者に申し出てくれたのだそうだ。 「最初に船を動かそうとしたのが、十九か二十歳ぐらいの、明るい金髪の青年だったそうですよ。周囲の人々に指示をだして、操船する男たちの中心にいたらしいです」 「そうですか……」  きっとエリだ、とケアルは確信した。確信したとたん、どっと涙が出た。  目もとを手のひらで覆ってうつむくケアルの背を、造船職人は父親が息子を慰めるような手つきで、ぽんぽんとたたく。 「こんなことを言うと、あれですが……これはあくまでも伝え聞きですから、確かな話とはいえません。よかったら、話を聞いてきたうちの若いやつに、御友人らしき青年を見たと言っている人のところへ案内させましょうか?」  もしこの情報が違っていて、ぬか喜びさせてしまったら可哀想だ、という彼の心遣いに感謝しながら、ケアルはうなずいた。 「——お願いします」      5  西風が東風に変わるころ、ケアルはピアズのいくつか所持する別邸のひとつにいた。  年に何度か園遊会をひらくこともあるというその真っ白な別邸は、陽射しもまぶしい海沿いに建っている。故郷の岩壁に似た岩場が近くにあり、沿岸には南にむかって長く、広い砂浜が続いていた。邸から直接、砂浜へおりることができるようくねくねとした小道がつけてあり、それもケアルに故郷を思い出させた。  邸内も、デルマリナ市内にある本邸と異なり、開口部の大きな明るいつくりになっている。主階はどの窓も、開け放てば庭と邸内を自由に行き来できた。 「それが、飛行服というものなの?」  革製の上着をつけて広間に現われたケアルに、マリナが目を丸くして訊ねた。 「ええ、そうです。革のベルトがたくさんついているでしょう? これを翼の留め具につなぐようになっています」 「これは、なあに?」 「ゴーグルです。上空は風が強いので、これで目を保護します」 「こっちは?」 「グローブです。上空へいくほど空気が薄くなって、気温もさがるので——」 「マリナ、いいかげんにしなさい」  庭から現われたピアズが、子供のように好奇心をあらわにしている娘をたしなめた。 「おまえが彼を独占しているものだから、お客さまたちが待ちかねているよ」  苦笑しながらピアズは、庭をしめしてみせた。青々とした芝がいちめんにひろがる庭には、料理や飲みものを乗せた卓が並べられ、その周囲では三十人ほどの客たちがグラスを手に談笑している。  今日は、ピアズが特に親しくしている人々を招いての園遊会だ。彼の総務会入りを祝うのが目的であるらしいが、客たちにとって園遊会の最大の呼びものは、ケアルによる翼での飛行であった。  最初、ピアズからこの話を持ちかけられたとき、見世物になるつもりはないと、いったんは断ったのだ。だがマリナに、あなたが飛んでいるところを見たいと無邪気にせがまれ、渋々ながら承知した。  この別邸に着いてもケアルは、やはり気が進まなかったのだが、こうして久しぶりに飛行服を身につけたとたん、もう見世物になろうがピアズの政治的な駆け引きの道具にされようが、もうどうでもよくなってしまった。肌になじんだ革の手ざわりを確かめ、革を手入れする油の匂いを嗅ぐと、それだけでこの身がもう空の上にある気分になる。 「準備はよろしいですか?」  ピアズに問われ、ケアルはうなずいた。 「翼はおっしゃる通り、崖上に待機させてあります。手が必要でしたら、家令を何人か向かわせますが?」 「いえ、ひとりで大丈夫です」  微笑んでかぶりをふりながら、庭へ出る。湿気のない気持ちいい風が、芝を揺らして右から左へ吹き抜けていった。  見あげた空は、快晴。突き抜けるような青さに、じんわりと胸が熱くなる。  あとを追うようにして庭へ出てきたマリナが、心配げな顔をしてケアルをのぞきこんだ。 「もう半年以上、飛んでいないのでしょう? 大丈夫なの? だめだと思ったら、そう言っていいのよ。お父さまの面子《めんつ》なんて、関係ないんですもの」  真剣に言うマリナに、ケアルはにっこりと微笑んでみせる。 「見ててください。おれが飛ぶところを」  白い翼の中央には、太陽と鳥を図案化したライス家の紋章が、青い糸で織り込まれている。近づいて、ケアルはそっと紋章の部分を指先で撫でた。  久しぶりだね。ずっと地下の倉庫に入れたままにしていて、ごめん。やっと、風を受けることができるよ。青空に、飛び込むことができるんだよ。  ケアルの声には出さない語りかけに応えるかのように、翼が風にあおられて揺れた。  ひとつひとつ点検し、安全確認をしながら、飛行服のベルトと翼の留め具をつないでいく。地面は翼の鼻先に向かって軽く傾斜し、緑の草地が途切れたむこうには、切り立った崖が海へと落ちていた。ひろがる大海原からは、離陸にちょうどいい強さの風が吹いてきている。  操縦桿を、卵を抱くようにそっと、手のひらで包みこんだ。しっくりと馴染む感覚が、涙が出そうになるほど嬉しい。  振り返ると、園遊会に集まった人々がじっとケアルと翼に注目しているのが見えた。いちばん手前で、白い肌が灼けるのも厭《いと》わず陽射しの下に立っているのは、マリナだ。きっと心配そうな顔をしているに違いない。  ぎゅっと操縦桿を握りしめて、ケアルは前を見据えた。波が陽をうけて、きらきら光っている。吸い込む空気は、潮と緑の青い匂いがする。 「さあ、行くぞ——!」  走り出したケアルの足が、ふわっと地面から浮かびあがった。風をうけた翼が、ケアルを地上から引き離し、空へと放り投げる。  なにもかも受けとめてくれる空へ、その青さの中へ、ケアルは飛び込んでいった。 [#挿絵(img/KazenoKEARU_02_227.jpg)入る]  崖上から海へ、海から園遊会のひらかれている庭の上空へ、そしてまた海へ。これを三度ほど繰り返して、ケアルは飛び立ったときと同じ崖上に着陸した。  もっと長く飛んでいたかったが、これ以上空にいると、ふたたび地上へ戻ってくるのがあまりに苦痛に感じられただろうと思う。  駆け寄ってきた家令たちとともに、翼を分解し折り畳んで仕舞うと、ケアルは飛行服のまま園遊会がひらかれている庭へむかった。ケアルが姿を現わしたとたん、客たちの間から拍手がおこった。 「ありがとう。すばらしいものを、見せていただきました」  真っ先にピアズがケアルの手を握り、彼にしては珍しい、興奮にややうわずった声音でそう言った。  ピアズが離れると、客たちが次から次へとケアルに握手をもとめてきた。どの客も興奮の色は隠せぬ様子で、すばらしいという言葉を何度も繰り返す。  飛行服やゴーグル、グローブもかれらにとっては珍しいものなのだろう。触らせてほしいと言われ快く承知すると、たちまち四方八方からのびてきた手に、ケアルはもみくちゃにされてしまった。  ようやく客たちの間から抜け出し、着替えるために邸内に入ったケアルを迎えてくれたのは、マリナだった。差し出された冷たい飲み物を受け取り、 「いかがでしたか?」  そう訊ねると、彼女は唇を震わせて、いきなり大粒の涙をぽろぽろとこぼした。 「ど……どうしたんですか?」  あわてて顔をのぞきこむと、マリナはしゃくりあげながら「怖かったの」と訴えた。 「——あなたが落ちるんじゃないかって、すごく怖かったの。下から見てると、全然違うひとみたいに見えたの。あなたじゃないみたいに、見えたの」  マリナを愛しいと思い、それを自覚した、これが最初の瞬間だった。    * * *  園遊会の客たちは、半数がその日のうちにデルマリナへ帰って行き、残る半数が別邸に一泊してから帰って行った。  ピアズとマリナ、ケアル、それに本邸から連れて行った数人の家令たちは、あともう一泊することになっている。 「これでまたデルマリナ中に、人がいかにして空を飛ぶか、という噂がひろまるでしょうね」  最後の客を見送ったあと、ピアズは悪戯小僧のように笑ってそう言った。 「——ところで、ミセコルディア岬のむこうへ向かった船ですが。ことごとく、岬を越えることができずに戻ってきたそうですよ」 「ほんとうですか?」  それはケアルにとって、嬉しい知らせだった。  ハイランドを目指して出航していった船は、ピアズが確認したところでは、およそ二十隻。二十隻もの船に大挙して押しかけられては、ハイランド中が混乱状態に陥《おちい》るだろうことは想像に難くない。 「この時期、ミセコルディア岬は季節風が吹き荒れていますからね。岬へ近づくことすら難しいだろう、とは予想していましたが」  難所と呼び声も高いミセコルディア岬を通過できるのは、年間を通してみても、わずか四、五ヶ月しかないという。 「心配をおかけして、申し訳ありませんでした。ヴィタ・ファリエルが船を出したとわかった時点で、私ももう少し迅速に対応できていればよかったのですが——」 「いえ。おれの方こそ、なんとかしてくれと言うばかりで……お恥ずかしいです」  結果的に言えば、ハイランドへ向けて何隻もの船が出航していくのに焦《あせ》ったヴィタ・ファリエルが、公安隊などというものを組織してくれたおかげで、実際に出航した船は二十隻程度におさまったといえる。いい時間稼ぎをしてくれた、というのがピアズの見解だった。 「スキピオさんにも、お手数をかけてしまいましたし……」 「いや、彼はきっと私が頼まなくても、同じことをしていたでしょう。よほどあの航海が堪えたのか、まだ四十そこそこの年齢だというのに、今年限りでの引退を決意したそうですからね」 「引退されるんですか?」 「ええ。先日、そういう手紙をいただきましたよ」  そうですか、とケアルはしみじみとした気分でうなずいた。初めて会ったときのスキピオは、とても精力的な、おおらかな性格の男にみえたものだ。あれから半年以上が過ぎようとしている。だがケアルの感覚では、もう十年も前のことのように思えた。  三十人の客が去ったあとの邸は、ひどく静かで、淋しいほどだ。邸の周囲に民家の影はなく、丘を三つほど越えた先に、農家が五軒ほどかたまった集落があるだけだ。そこはピアズが所有している土地で、農家の人々は彼に毎年、決まった地代を払っているのだという。大アルテの商人たちは皆、多かれ少なかれこのような土地を所有しており、そこに暮らす人々から地代を徴収しているらしい。  ふたりが並んで邸内に入ると、待ちかねたように家令のひとりが駆け寄ってきた。 「——至急の手紙が届いております」  差し出された手紙は、封蝋がはち切れそうなほどぶ厚い。手紙を受け取ったピアズは、その場で封を開き、立ったまま文面に目を走らせた。  ひとこともなく部屋に戻るのは失礼だろうと、ケアルは少し離れた場所に立ち、ピアズが手紙を読み終えるのを待った。  やがて顔をあげたピアズは、ケアルが口を開く前に、手紙を軽く掲げてみせ、 「非常にまずい事態になりました」  一瞬ケアルの頭に浮かんだのは、エリのことだった。エリが何かやらかしたのか、それともエリの身に何かあったのか——。 「ミセコルディア岬に向かった船のうち一隻が、ハイランドのどこかにたどり着いてしまったようです」 「一隻だけですか?」  ケアルの問いにピアズがうなずくのを見て、不幸中の幸いかと胸をなでおろした。一隻ならまだいい、なんとかなるだろう。  しかし次の言葉に、ケアルは愕然《がくぜん》とピアズの険しい顔を見返した。 「その船はハイランドで、襲撃をうけたそうです。水夫五十名中、二十人が襲撃により死亡——」 「誰が、いったい……」 「襲撃者たちは、三角帆のある小舟に乗っていたそうです」  ピアズは険しい顔のまま、ケアルの目をのぞきこんだ。 「ハイランドの漁師たちが使う舟は確か、三角帆のある小舟でしたね?」  肩も首も顎も、こわばりついて動かない。ケアルはうなずくこともできず、喉の奥からどうにか絞り出した震える声で「そうです」と答えた。 「——では、そういうことなのでしょう」  邸の外は眩《まぶ》しい陽光がふり注いでいたが、ケアルは間近に迫った嵐を予感した。 [#改丁]    あとがき  明朝六時が、原稿の最終締切。現在、深夜一時。残る時間は、あと五時間。けれどどう考えても、どう頑張っても、原稿は書きあがるはずがない——こんな時、皆さまならどうしますか? 1.無理なものは仕方ないので、とりあえず寝る。 2.せめて誠意をみせようと、徹夜でがんばる。 3.五時間かけて、原稿ができなかった言い訳を考える。  どれを選ぶかで、あなたの本来の性格がわかる……かもしれません。ちなみに私が実際にやったのは——あえて言いますまい。言わぬが花、という名言もありますので。  いきなり妙な選択問題で始まってしまいました。申し訳ありません。でも、これをしょっぱなにもってくるほど、今回の原稿は……(涙)。  それにしても、パソコン通信というのは便利ですね。たとえ深夜の三時だろうが、誰に迷惑かけることもなく原稿を送ることができます。切羽詰った作家にとって、これほどありがたいものはございません。きっと、朝いちばんにメールボックスから原稿を拾ってきた担当編集氏も、そう思ったことでしょう。  原稿を送るばかりではありません。今回は、パソコン通信の某フォーラム「帆船会議室」から、およそ百科辞典一冊分に相当するだろう量の情報を拝見させていただきました。お客として帆船に乗った方ばかりでなく、乗組員として帆船の操作に参加している方々がさまざまなエピソードを披露してくださっていて、資料としてというよりも、読んでいてすごく楽しめます。たとえば——タッキングした拍子に、帆船の厨房内で電気釜が宙を飛んだなんて話は、実際に経験した方でないと出てこないでしょう(ちなみに私はそれを読んで即、我が家の電気釜の重量を計りました。どの程度の重さのモノが宙を舞うのか、これでもうばっちりです)。  家にいながらにして、取材できる。ほんと、便利になったもんです。帆船会議室に参加されている皆さま、ありがとうございました。  前回のあとがきに、このお話は「全三巻」の予定と書きました。しかし、それを信じた方はひとりもいなかったようです。いや、作者自身はちょっとは信じてたんです、これでも。少なくとも二巻目の、三分の一ぐらい書き終えるまでは。ふつう、もっと早く気がつきそうなものですけどねぇ。  そういうわけで、予定変更です。このお話は「全四巻」となります。二巻目が終わったところで、全エピソードの七分の三を消化していますので、きっと四冊で終わるはずです。でも、作者本人がそう言っているのに、友人たちは鼻先で笑って「クライマックスのシーンはページ数がかさむものなんだよねぇ」「四冊って座りが悪いよね」。そ……そうなのか…………? 頼むから、不安にさせないでくれよお(涙)。  とりあえず予定では、九月に三巻が、十一月に四巻が出るはずです。この夏の仕事スケジュールを考えると、ちょっと気が遠くなりそうですが、きっとなんとかなるでしょう。ほら、この本だって予告通りに出たんだしね。  次巻では、ケアルがやっと故郷へと帰還いたします。出航時のデルマリナがどんな状況なのか、帰った故郷がどんな状況にあるのか、そのあたりがポイントです。  ものの本によれば、幕末のころ蒸気船が欧州から日本へやって来るには、長いときでおよそ半年、短くとも二ヶ月の日程を要したそうです。往復するだけで、約一年。行って使命はたして帰ってきたら、気分はもう「浦島太郎」なのではないでしょうか。たとえば伊達政宗の命をうけて遣欧使節となった支倉常長など、出航して帰国するまでに七年かかっています。七年は……長いですよねぇ。幼稚園児が中学生になっちゃいますもの。  いや、ケアルが故郷に帰ってみたら七年経ってました、ということにはならない(はず)  ですが。十九歳の彼にとっては、たとえ一、二年であっても充分に長く感じられることでしょう。逆に、ピアズ・ダイクンにとっての一、二年なんて、きっとあっという間でしょうね。人間、歳をとるほどに時間は短く感じられるものです——ということはたぶん、原稿やってる時あっという間に時が経ってしまうのは、締切日がマッハの勢いで近づいてくるのは、それって私が歳をとったせいなのね。  すばらしい結論が出たところで。それでは皆さま、次は三巻でお会いしましょう。 [#地付き]三浦 真奈美 [#改ページ] 底本:「風のケアル2 波濤立つ都」C★NOVELS、中央公論社    1998(平成10)年5月15日初版印刷    1998(平成10)年5月25日初版発行 入力: 校正: 2008年4月3日作成